南畝と方角分 5 届けられた江戸情報

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承前

 これは恐らく澤田東江が酔郷散人のペンネームで『吉原大全』を出版した明和五年(1768)頃の話ではないかと思われるのですが、全くの初耳で意外でした。と言うのも大田南畝が「八丁堀」という江戸でも特別な地区を地理的な知識として認識していたとは考えていましたが、彼自身が若い頃それも狂詩集の『寝惚先生文集』を上梓した直後あたりから「八丁堀地蔵橋」に在った先輩文人宅を訪れていたのであれば、少し変な言い方ですが南畝には「土地勘」が在った証拠になります。

 そんな見方も頭の隅に置いて「方角分」の登場を分析するとどうなるのか…。まず、時間的な流れを整理してみると…。

  ① 文化十四年頃から歌集「蜀山百種」の準備に入る
    =己の原点としての狂歌、狂詩を再確認する。

  ② 古希の誕生日(三月三日)を目前に控えた文化十五年二月十八日、
    通勤の途上で顛倒して負傷。しばらく自宅療養を余儀なくされた。

  ③ 時間を持て余した南畝が出来る事と言えば、過去半世紀にわたる
    活動の回顧と記録であり、幾つかの随想を書き留めた。

    「奴凧」も、そんな文集の一つであり序文によれば筆を起こしたのは
    文化十五年四月二十日である。(その二日後に文政と改元される)

  ④ 病も癒えた六月晦日に山東京伝自筆の「浮世絵追考」が届けられる。

  ⑤ それから僅か数日後、七月五日には竹本某という人物が「諸家人名江戸方角分」を届ける。
    (・この日付は「方角分」にある奥書によるもので、南畝の日記から引用したものではない)

 現実家であり有能な官吏でもあった南畝が、この頃「感傷」にばかり浸っていたとは言いませんが、少なくとも「天明の黄金期」を懐かしみ狂歌を媒介として己の周囲に集まり、そして次々と帰らぬ人となった有縁の誰彼との幾多の思い出を新たにしていた…、その最中に現れた「方角分」を手に取ったのであれば、書かれた内容を隅々まで噛みしめたはずなのです。

 何しろ自らの半世紀の生き様をそっくり描いた交遊録が目の前に提示されたのですから--。絶妙のタイミングで手許に届けられた「自らの存在証明」、己の分身と等身大の文人録を若し貴方が思いがけずプレゼントされたならどうしますか?直ぐに誰かにやってしまいますか!そこが今回の主題そのものなのです。

(続く)

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