南畝と方角分 4 東江の住んだ地蔵橋

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承前 若い頃、南畝は地蔵橋を訪れていました)

 二月半ばの顛倒事故で自宅療養を余儀なくされた大田南畝が、それまで書き溜めてきた原稿類をまとめようと思ったのも、やはり着実に迫りくる「老い」を実感していたからなのかも知れません。そして彼の想いは、やはり青春の日々、在りし日の回顧へと向かったのでしょう。

 『奴凧』の前半で狂歌の「始まり」と大流行を親しみを以て詳しく細々と述べているのも、南畝という人物の詩心の源が何処に在ったのかを如実に示していると考えられるのです。彼は万感の思いを込めて、表向きはさらりと言います、

  江戸にて、狂歌の会ということを始めてせしは、
  四ツ谷忍原横町に住める小島橘州(唐衣橘洲、1744~1802、田安家の家臣、名は源之助)なり。
  その時、会せしもの、わずかに四五人なりき。
  大根太木、馬蹄、大屋裏住、東作(へづつ)、四方赤良なり。

 『たった数人で始めたのさ、私たちが』『それが日本中に広まったのさ』--自分の子供の成長を語るような口ぶりの背景にはきっと、南畝が狂歌に注いだ熱い思いが横たわっているのでしょう。
 そして「明和の初め」の頃を次のように回想しています。

  牛門の四友と称せし岡部平次郎、大森晃昌、菊池角蔵に
  南畝の四人で東江先生を招いて歓談した。
  目白台にあった漏々亭という店で酒盛りをしたのだが、
  白馬道人と名乗る酔客が大声で騒ぎたてると、先生は根っからの
  臆病なので早々に店を出ようと言ったものだった。

 ここに出ている「東江先生」とは、学者でもあり戯作も出していた東江流の書家として知られた沢田文治郎(1732~1796、両国生まれ)の事なのですが、南畝は更に続けて、

  東江先生が八丁堀地蔵橋に住んでいたころ、まだ門人も少なく、
  正月の会はじめにも岡部公修(平次郎)と一緒にいったものだった。

と述懐しています。(冒頭の画像参照)

(続く)

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