南畝と方角分 3 古希を目前に転倒事故

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承前 画像は南畝晩年の随筆『奴凧』)

 寄る年波か、将又心の隅に知らず知らず緩みでも生じていたのか大田南畝は登営の途上、神田橋の内で転倒し負傷します。怪我の詳しい内容までは分かりませんが、再び出仕出来るようになるまでには時間がかかった模様で、最晩年の随筆『奴凧』では次のように記録しています。

  つらつら思えば、老病など見たくでもなく、忌々しきものはあらじ。

  家内の者には飽きられて、善く取扱う者なし。

 一家の大黒柱を粗末に「取り扱う」はずもなく、半ば、外出がままならない事に対する南畝の「我が儘」であることは明白なのですが、彼にとって「痛かった」のは怪我をした五体もさることながら、このままでは目前に迫っていた「古希の祝」を延期あるいは中止せざるを得なくなることの方だったでしょう。

 何しろ、転んだのが「きさらぎ十八日」つまり、誕生日まで二週間しかない二月十八日だったのですから…。彼が「現役」のままで七十の誕生日が迎えられる日を楽しみにしていたことは、年明け早々自らが編んだ狂歌集を『蜀山百首』と名付けて自費出版していることでも良く伝わってきます。

 風来山人こと平賀源内の序文を巻頭に頂き、初の狂詩集『寝惚先生文集』を上梓して、なんと半世紀もの歳月が経っていたのですから、南畝の感慨もさぞ一入だったに違いありませんね。

 歌集作りに勤しむ彼の脳裏には、かつて時代の寵児としてもてはやされ絶頂に在った時から「七十翁」の今日までの出来事が走馬灯の如くに浮かんでは消え、南畝は過ぎし日の歌を幾度も幾度も反芻したと思われます。
 『奴凧』との前後関係は調べきれていませんが、この年の著作と思われる『武江披砂』の序文にも、

  いつしか七十の翁となりぬ。老の病のひのある日、
  この草稿を求めいでて(中略)、文政と改まりぬる年の冬の半ば

とあります。五十年、半世紀に亘る人生が走馬灯のように彼の脳裏を駆け巡っていたのかも知れません。

(続く)

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