南畝と方角分 2 筆まめで本好き

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承前 南畝の随筆『奴凧』地蔵橋を訪ねた折に触れた部分)

 時間を十年ばかり遡ります。寛政の改革の目玉政策の一つ「学問吟味」で好成績を収めた大田南畝は勘定所取調御用という「役」に付きます(要するに年俸が[米30俵]分増えるのです)。
 彼は、その後も大坂銅座、長崎奉行所などで無難に経歴を積み重ね、玉川巡視役を仰せつかった文化八年(1808)、目出度く還暦を迎えます。
 この年の旧暦三月三日自宅で開かれた祝の席に出されたメインディッシュはヒラメの刺身と煮付け、豪華な伊勢エビの盛り付けもあり澄まし汁の具は白魚、香の物として沢庵とハリハリ漬も添えられていたと言ったら貴方は信じますか?

 ざっと二百年前の個人宅で行われた小宴の献立が何故分かるのか!種を明かせば簡単な事、大田自身が随筆集『一話一言』(巻三十二)の中で当日の料理と費用の全てを書き残しているのです。とにかく筆まめな人でした。

 さて、今回の主題は「それだけ本好きで、若い頃から珍しい書物を集めていた南畝が、何故『諸家人名江戸方角分』に余り興味を示さず、早々と手離したのか」といった辺りに端を発します。

(南畝は宴を盛り上げるために三味線弾きを呼んでいたらしく、その費用が百六十四文だったと記しています。当時の米の価格が大体一升・百二十文だったそうですから、数千円といったところでしょうか。子供連れの芸人に彼は、上田紙二束を心づけとして渡しています。上田紙は長野産の再生紙の名称だそうです)

 無類の、と言うと語弊があるかも知れませんが、それでも並外れた数の蔵書を収集し、狂歌師や戯作者は勿論当時の文人仲間たちの間では『本好き』人間として認められていた南畝は、家庭の事情もあり還暦を迎えて即楽隠居の身になれた訳でもなく、その後も黙々とお役所仕事に精を出していました。(跡取り息子は父と同じ御家人の道に就くことが叶いませんでした)

 彼の周囲で文化年間に起きた大きな出来事と言えば加藤千蔭(1808没)、瀬川菊之丞(1810没)、朋誠堂喜三二(1813没)、山東京伝(1816没)など知友の死去だと言えますが、中でも「盟友」京伝が僅か五十六の若さで鬼籍に入ったことは元気印がモットーの彼にも相当応えたのではないかと思われます。

(続く)

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