南畝と方角分 1 原点は狂歌

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(「狂歌」を始めた当時の回想録部分『奴凧』より)

 柳亭種彦(1783~1842)は、このサイトの常連、江戸の浮世絵師・東洲斎写楽より一回り以上も若い世代の戯作者ですが、その門人の一人に笠亭仙果(りゅうてい・せんか,1804~1868)という人物がおり、大田南畝の蔵書について『四方ぬし、二万冊に満てり』(文政十二年五月『よしなし言』)と書き残しているそうです。

 乏しい小遣いをためては目星を付けておいた書物をこつこつ買い求め、どうしても費用が工面できない場合には伝手を頼って持ち主から借り受け、せっせと筆写したと云う南畝の本好きは有名で、その小さな家には正に万巻の書が積み重ねられていました。

 ある年の夏、一人の人物が南畝の許を訪ね、一冊の書を進呈しました。それが、今回の表題でも取り上げている「諸家人名江戸方角分」という写本なのですが、この書物は何故か大田の蔵書目録(「南畝文庫蔵書目」)にも書名をとどめず、専門家の調べでも早くに彼の手許を離れ、古書店の経営者(達磨屋五一,1817~1868)の手に落ちたことが分かっています。

 この「人名方角分」は、十九世紀初頭の江戸文化を支えた著名な文人雅人の名簿録だったのですが、従来のモノとは一味違った特色を備えていました。一千名を超える人数の多さも去ることながら、それまで文人録では取り上げていなかった「狂歌師」「浮世絵師」そして「戯作者」といった庶民感覚の表現に巧みな人々の存在にも焦点を合わせ、市井の人たちが欲しがるであろう個人情報の網羅に努めています。

 取り分け蜀山人の原点とも言うべき「狂歌」の作者達が最も多数を占めている点を重視するなら、正にそれは大田南畝の半世紀に亘る交友記録でもあったと言えるのではないでしょうか。

もっとも「狂歌」師に限ってみれば、既に文化八年(1811)版の『狂歌画像作者部類』(石川雅望編)が先行して刊行されています。ところが方角分の編者は、恰好の材料であったはずの作者部類に掲載されていた内容を、そのまま全て取り入れている訳ではなく、独自の取材を行い四百名ちかくもの狂歌師を登場させています。

 石川(1753~1830)は南畝の門人、浮世絵師・石川豊信の五男として江戸で生まれた人で、六樹園と号して狂名を宿屋飯盛と称しました。狂歌四天王の一人にも数えられた、その道では知らぬ者の無い存在だった訳ですが、その著作に背を向けている節が感じられるのには何か理由でもあったのでしょうか?それはさておき。

(続く)

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