続・酒楽斎 2 蔦屋、南畝とも懇意
(承前)
江戸前期の国学者であった今井似関が『本朝神社考』を参考として引用の形で「駿河国風土記」逸文と看做した「三保の松原」の伝承は次のような文言だった。(現在、この文章は古代風土記の逸文とは考えられていません)
風土記を按ずるに、古老伝えて言はく、昔、神女あり。
天より降り来て、羽衣を松の枝に曝しき。
漁人、拾い得て見るに、その軽き柔らかきこと言ふべからず。
所謂六銖の衣か、織女の機中の物か。
神女乞へども、漁人與へず。神女、天に上らむと欲へども
羽衣無し。ここに遂に漁人と夫婦となりぬ。
大田南畝に続けて絵に詞書を入れているのが「つむり光(狂歌四天王の一人、別号・桑陽庵、寛政八年没)」で、彼も『珠流河二丁町 酒楽斎のあるじ わが大人の門に入りて』の文言で絵を飾っていることから、江戸文芸の研究者たちは、この作品を吉野七兵衛(狂名・洒楽斎瀧麿、吉野家酒楽とも号する。寛政十年没)が、天明六年頃に大田南畝の門人となった事を記念して、南畝が蔦屋重三郎に注文して拵えた誂えもの(入銀物)だと云うことのようですが、恐らく駿河地方でそれなりの「成功」を収めていた吉野家が、入門と引き換えに多額の束脩(謝礼)を南畝に贈った返礼ではないかと思われます。
それから二年後、蔦屋は喜多川歌麿の画を駆使し『画本虫撰(むしえらみ)』を発売、その絵本の中の「蛍」を受け持っていたのが酒楽斎であったことは既に見てきた通りです。そして同じ天明八年、人気戯作者の山東京伝が酒楽斎瀧麿を主人公にした黄表紙『吉野家酒楽』を蔦屋から刊行しています(筆者は未見)。
さらに京伝は同じ年に出した『富士人穴見物』で、主人公の仁田四郎の案内人として作中に「駿河町の酒楽」を登場させてもいるのです。商売上手の蔦屋が、ここまで酒楽を「持ち上げ」ている事から、吉野家自身が蔦屋にも資金(出版費用)を出していた可能性が高いと思えるのですが、確かな資料を見つけ出すことが出来ませんでした。そして異例の特別待遇は未だ続きます。翌天明九年(寛政元年)京伝は『嗚呼奇々羅金鶏』という黄表紙を歌麿の挿絵入りで発表しますが、その主人公が上方から江戸に旅する途中で立ち寄った先が、又しても「駿河二丁町、よしのや洒楽」の邸宅に設定されていたのです。
この作品は角書にも「淀屋宝物東都名物」(東都見物とする資料もある)とある通り、宝永二年(1705)幕府が全ての財産を没収した浪速の豪商・淀屋辰五郎の「宝物」であったとされる「黄金の鶏」を題材にした読み物で、京伝は最終ページで続編の刊行まで予告しています。それが三庄(山椒)太夫と三女・鶏女の因縁話を骨格にした読み物(『福種笑門松』)で、歌麿の挿絵をそっくりそのまま利用しており、よしのや酒楽の名は姿を見せていません。
そして京伝は同じ寛政元年、自らが別の作者の作品に描いた挿絵を幕府に咎められ過料処分(罰金刑)を受けてもいます。「改革」を進めようとする幕府は、読み物・挿絵などが持つ「民衆への影響力(風刺と批判)」に大きな関心を寄せるようになっていたのです。蔦屋も京伝も幕府、奉行所の監視対象となっていたことは明らかでした。
(終わり)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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