写楽外伝 3 

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承前

 正に目を疑いたくなるような文言ですが、大田南畝の「手跡=筆使い、書体」の「骨髄=真髄」を会得した文宝亭は、南畝が主催する毎月の会合に同席して蜀山人の「書」を求める人が多い時には亭主の側に座って「公然と偽筆した」らしいのです。

 曲亭馬琴は続けて彼が二代目を名乗ったものの、病を得て文政十二年に死去したのは『偽筆の崇り』だと辛辣な言葉で締めくくっていますが、江戸の書誌に詳しい八丁堀生まれの三村竹清(1876~1953)も、蜀山人判取帳を取り上げた『判取帳筆者小伝』の中で南畝の弟子・酒月米人(狂歌名・さかずきのこめんど、榎本治兵衛、号・吾友軒、?~1818)を、

  蜀山流の手をよく書きて、文宝亭を凌げり。

とまで評しています。一説には、竹村自身が蜀山流の書き手でもあったそうなので、米人の記した文字などは素人目に南畝自著の物と区別がつかなかったかも知れません。

 であるのなら、今まで誰も疑いを差し挟まなかった「諸家人名江戸方角分」の奥書そのものも真贋の是非が問われることになるでしょう。何故、方角分には写本が二本しかなく、その何れもが著名な古書店の収蔵物だったのか、また、大変な書籍愛好家でもあった南畝が、何故知り合いの歌舞伎役者からわざわざ贈呈された原本に近い写本を直ぐに手放したのか、更には、南畝の蔵書目録に何故、方角分の書名そのものが無いのか等々、謎の解明にもつながるのではないでしょうか、それはさておき、今回の主題に取りかかりましょう。

 『武鑑』は江戸期に民間の書籍などを扱う民間の問屋が発刊した紳士録です。収録者は大名、旗本、御家人は勿論のこと、本来は町人であった医師、職人、商人などで武士の身分を幕府から与えられていた者も多数含まれており、東洲斎写楽ではないかと見られてきた能役者も「お役人篇」の最後尾に名を連ねています。

 写楽探しを続けてきた当ブログでは、これまでにも度々この書物について解析を行ってきましたが「写楽=斎藤十郎兵衛」説に対する一番の疑問点が「武鑑」に一度も斎藤十郎兵衛名前が記載されていない処にあります。では、従来の研究結果を基に、斎藤与右衛門と十郎兵衛の足取りを探ることから謎解きを初めてみましょう。いつもの表の出番です。

(続く)

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