写楽外伝 2 公然と行われた偽筆

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承前

 東洲斎写楽の活動期に十代後半を迎えていた江戸の戯作者・式亭三馬(1776~1822)が、自ら所有していた「浮世絵類考」に、

 『三馬按、写楽、号、東周斎、江戸八丁堀に住す。半年余行わるるのみ』

の文言を付け加えたのが、大体、文政四年(1821)頃までだと推定されていますから、歌舞伎役者の真に迫った浮世絵版画が江戸の町で売り出されてから、ほぼ三十年後に彼の住んでいた町名(通称)が特定されたのだと言えそうです。

 これについては三馬が独自の情報源(同業者や業界人など)を持っていたと考えることも出来ますが、文化十四年から翌文政元年(1818)にかけて作成されたと思われる『諸家人名江戸方角分』という未刊の資料には、写楽と酷似した「写楽斎」という人物の名前が記載されており、この人物の住まいが「八丁堀、地蔵橋」となっていることから、三馬が、この写本を見る機会があったと考える研究者も居ます。

 しかし「江戸方角分」という書物は公には刊行されてはおらず、これまで僅か二冊の写本が知られるのみで、江戸で暮らした文人たちの間で広く流布したとは到底想像することが出来ないだけでなく、その内容の信憑性自体についても早くから疑念が表明されてきました。

 それが大田南畝の真筆だと看做されてきた「奥書」に関わる偽筆問題です。

 『南総里見八犬伝』の作者である曲亭馬琴(1767~1848)は、東洲斎写楽とほぼ同じ世代の江戸人ですが、彼は未刊の作家論『近世物之本江戸作者部類』(天保五年に成立)という書物の中で、蜀山人二世を名乗った文宝亭(亀屋久右衛門、1768~1829)について、凡そ次のような評価を述べています。

  但この手迹は蜀山人の骨髓を得て、彼紫の朱を奪う菖蒲燕子花ともいわましとて、
  よく玉石を辨ずるものなし。よりて師の僞筆をなすに、乞う者僞筆と知りつゝも、その速きを
    欣ぶもありけり。此をもて月の十九日毎なる杏花園の小集に、
  主翁の書を乞うもの多かる時は、文寶主翁の傍に侍りて、公然として僞筆をしたり

  【杏花園、蜀山人はいずれも大田の号】

(続く)

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