写楽と浮世絵類考 20 十郎兵衛と与右衛門

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承前

江戸の町に役者絵を得意とする東洲斎写楽という筆名を持つ絵師が現われ、
寛政六年五月から十カ月ほどの間に百数十枚の浮世絵を描き、忽然と消えた。
幕府や大名お抱えの絵師とは違い、当時の浮世絵師の実態は良く解っておらず、
蔦屋耕書堂という著名な版元が一手に作品の販売を引き受けていたにも関わらず、
写楽の実像は杳として知る者がなかった。
寛政末を迎える頃になり、蔦屋とも親交のあった大田南畝が「浮世絵考証」を書き、
その後、絵師の家譜などを笹屋新七が付け加え、山東京伝が「追考」を付加した写本が
原型となって「浮世絵類考」は、多くの人々の目に触れ、関心の的ともなった。
そんな写楽も、天保十五年に至り、江戸の名主で考証家の斎藤月岑が、新たに
『増補浮世絵類考』を上梓して、俗称・斎藤十郎兵衛、阿波藩の能役者だったという
決定稿が公刊され、一つの節目を迎えた。

その後も長い間、数多くの「異説」が発表されては消える時代が続いたが、
様々な研究者たちの手によって、

  斎藤十郎兵衛という名前の喜多座に属する能役者

が江戸期に実在した事、また、彼が、

  阿波徳島藩から扶持米を支給されていた

事実も明らかになり、更には別の研究者の調査によって、

  元々、阿波藩の下屋敷に住んでいた斎藤十郎兵衛が、
  のちに八丁堀地蔵橋の武家地の一角に転居し、
  隣家の主が斎藤家の子弟を養子として迎え入れた

ことまで知られるようになった。現在、誰もが知ることの出来る以上の事柄は
全て何らかの裏付け(証拠)に基づいた研究成果なのですが、
ただ一点、今でも詳らかになっていない重要な疑問点が存在します。
それは、斎藤何某という能役者が、八丁堀に住み生活していたことは間違い
ないにしても、

  彼が「絵」を描いた 版画の下絵を描いた

事にかんして、証明できる手立てが一切見付けられていない点です。
更に、有名な先生がおっしゃる通り、江戸期を通して浮世絵師に対して
与えられていた社会的な低い評価が背景にあったにせよ、絵画や
出版に携わった大勢の業界人の誰一人、写楽の実体を知らなかった。
同業者の栄松斎長喜ただ一人を除いて。

最期の最後にもう一つ。斎藤家は江戸の初期から能楽の世界に居て、
明治まで途絶えることなく続いた家柄だったようですが、民間業者が
ほぼ毎年更新を続けていた『武鑑』には十郎兵衛の名前が載っていません。
代わりに斎藤与右衛門の名前は確かに記載されています。

(終わり)


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