聖徳太子一族 7 襲撃犯が左大臣に
(承前)
ちょっと考えてみて下さい。「事件」から、既に千三百六十年以上の年月が経ち、一世代三十年としても四十数代の人々が大昔のご主人様を神としてお祀りし続けてきた勘定になりますが、権力を手中にした新たな実力者たちの厳しい監視の眼がある中で、しかも王家に対して、あるまじき非道を重ねた者を手厚く「祀る」行為が、なんのお咎めも受けることなく延々と続けられるものでしょうか?
天皇の眼前で切り付けられ傷ついた入鹿は、驚きを隠せない天皇に対し、
臣(やつこ)罪を知らず。乞う、垂審察(あきらめたま)へ
と、襲撃を受けたにも関わらず冷静に申し立てを行っています。果たして、入鹿の「最期の一言」は、真実ではなかったのでしょうか?その是非は、読者のみなさんのご判断にお任せいたします。若し、皆さんが奈良・斑鳩の法隆寺をお訪ねになる機会があれば、その折にでも推理を巡らせてください。では、謎を解くための手掛かりになるかも知れない「情報」を一つお知らせして、今回のお話もお開きといたしましょう。
日本書紀は、蘇我入鹿を首謀者とする山背大兄王一家襲撃事件を一見、詳細に語っているように見えるのですが、実は肝心な点については全て口をつぐんだままです。それは、
① 襲撃の日を11月11日としているが、時刻は記していない
② 生駒山を降りて斑鳩寺に入った、とされる日時が記されていない
③ 「自ら死を選んだ」とする、日時、即ち命日すら記されていない
「上宮聖徳法王帝説」は10月14日だとし書紀と1カ月も異なる。
ことなどです。そして、最後になりますが、信じられない事実をご紹介しておきます。入鹿が上宮王家一族に差し向けた軍の中心人物とされる巨勢徳太(こせ・とこだ,593~658)が、その後、どのような処遇を受けたと思いますか?これだけの大事件、それも反逆罪といっても良いほどの事件の共犯者なのですから、極めて重い罪に問われて当然です。
ところが、この人物は何の罪にも問われなかったばかりか孝徳天皇(軽皇子,596~654)の大化五年(650)四月、なんと左大臣に任命されているのです。一方、悲劇の王子・山背大兄王の忠臣だった三輪文屋君という人物は「日本書紀」襲撃事件の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。
そして、更に驚くべきことに「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害した殺人犯の狛大法師は、孝徳天皇の、
更に又、正教(みのり)を崇(かた)ち、大きなる猷(のり)を光(てら)し啓かんことを
願う思いから大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。この人事こそ、全てを物語っているようにおもえるのですが、皆さんはどのように判断されるでしょう…。
なお「十師」の一人として名前のあがっている福亮を「沙門狛大法師」と同一人物だとする説があるようですが、良く知られているように福亮は法起寺に太子のために弥勒像を作った人物であり、全くの別人と考えるべきです。
(終わり)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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