聖徳太子一族 6 山背大兄王の墓は不明

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承前

 読者の皆さんは、ここまでの成り行きを見て、どのような思いを抱かれたことでしょう。さて、そろそろ、今回のお話も終点が見えてきました。つまり、こう云うことです、

  ① 実力者の蘇我氏は横暴を極め
  ② 「聖徳太子」一族を滅ぼしたばかりか
  ③ みずからの屋敷を「宮門(みかど)」とさえ称するに至った

 だから「乙巳の変」が起こり、悪逆非道な蘇我親子は排除されたのだ、と…。そうなのか!!、では、その様に、余りにも悲惨な最期を遂げなければならなかった「太子」長男の一族は、さぞ鄭重に葬られ、そして末代までも手厚く祀られてきたことでしょう……、普通、そのように感じるのが、考えるのが当たり前です。

 ---現実は違います。確かに「太子」と縁の深い斑鳩寺(法隆寺)は現存し、今でも「太子」を祀っています。でも、何かがおかしいですよね。そう、オカシナ点は幾つかあります。「書紀」によれば、

  「太子」そのものが悲劇の主人公であったのではなく、
  斑鳩寺で亡くなったのは山背大兄王一族であり、
  その王の子供が殺害されたのも斑鳩寺の中、

  しかも殺害したのは仏に仕える大狛という名の法師だった

のですから、法隆寺が祀らねばならないのは、飽く迄も、無念の最期を遂げた、それも仏の、或いは父である「聖徳太子」の教えに従って吾身を捨てた山背大兄王(一族)その人であるべきです。そうは思いませんか!摩訶不思議なことは他にもあります。

 「太子」の一族を皆殺しにした張本人・入鹿を現在でも祀る神社が彼の屋敷跡だったとされる地域に残され、社自体ははこじんまりとした目立たない造りですが、庭や周辺の手入れも行き届き、今でも近在の人たちに護られている感じを漂わせている一方、虐殺された十数名あるいは二十数名とも言われる人々の、取り分け上宮家の当主であり「聖徳太子」の嫡男であった山背大兄王の墓がどこにあるのか、それすら不明なのです。

(続く)

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