聖徳太子一族 5 法師も襲撃に加担?

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承前

 秦氏と縁の深い「深草」まで行けば、安全で十分な旅支度ができる、そして豊富な軍資金も用意することができるだろう。まだ、勝敗の行方を見定めかねている「軍人」たちに王子が檄(げき)を飛ばせば十分な兵も集められる。だから上宮家の乳部の民を中心にして軍隊を編成すれば、入鹿軍と戦っても決して負けることは無い、彼は、そう言い切っているのです。

 そして、恐らく、誰の眼にも状況は同じように映っていたはずです。ところが、主人・山背大兄王の下した決断は違いました。戦えば勝つだろう、しかし、民を戦で傷つけ損なうことは望まない、という理由から、犠牲的精神を発揮、

  是をもって、吾が一つの身をば、入鹿に賜う

と宣言した後、一族がそろって自害したと日本書紀は伝えているのです。

 では、別の資料は、この襲撃事件をどのように伝えているのかと言えば、まず「聖徳太子伝補けつ記」は、

  六箇日の後、弓削王が斑鳩寺に在るとき、大狛法師の手で殺害された

  山代大兄王子は諸王子を率いて山中から自ら出て斑鳩寺塔内に入った

 つまり、王子の子供が一人で逃げ出していた。更には、その王子の子が「法師」に殺されたと伝えているのです。また「上宮聖徳法王帝説」には、

  山代大兄及び其の昆弟など合わせて十五王子等悉く滅ぶなり

とあるので、厩戸皇子の弟妹四人、山背王の弟妹十一人、そして山背大兄王の子供七人の計二十二人と王本人の二十三人が、一時同時に亡くなったのではなさそうです。
 この「事件」が直接の引き金となり、翌年の乙巳の変へと歴史は激動して行くのですが……。

(続く)

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