聖徳太子一族 4 法隆寺での悲劇
(承前)
日本書紀は、これに先立ち、皇極元年には蘇我蝦夷が葛城の地に先祖を祀る建物を新設した時、大陸国家の皇帝が行うという八佾舞(やつらのまい)を奉納、さらには全国から沢山の人々を徴発して自分と息子の入鹿のために墳墓を造営、そして蝦夷の墓を「大陵」(おおみささぎ)と呼んだと書き記し、この行いについて「太子」一族の上宮大娘姫王が、
蘇我臣は国政を我が物にし、非道が眼に余る。
全国の民を勝手に使役することなど許されない
と大いに非難されたとも伝えています。話しが前後しますが蘇我親子が自分達の墓を作り終えた翌年、つまり上宮大娘姫王の糾弾があったとされる皇極元年の次の年、十一月十一日、悲劇が起こります。(上の画像を参照してください)
入鹿、巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣りて山背大兄王等を斑鳩におそはしむ
「太子」の嫡子一族は事前に何らかの警告・情報を得ていたらしく全員が無事、一旦、生駒山に逃れることに成功します。ところが山背大兄王は何を思ったのか、安全だと思われる生駒の地を捨て、最も危険な場所である斑鳩寺(法隆寺)に入ってしまいます。
物見からの報告を得た入鹿側の軍将等が直ちに寺の周囲に兵を集結したことは言うまでもありません。襲撃から寺へ入るまでの経過時間を日本書紀は「四五日」としていますが、この間、何もしなかったという訳ではなく、従臣の一人であった三輪文屋君は、次のような発言をして王子の奮起を促しています。
深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国にいたりて、
乳部をもって本として、
師(いくさ)を興して還りて戦わん。その勝たむこと必じ
別段の解説も要らないかと思いますが、世情に最も明るく、知識も豊かで主人想いの家臣が極めて当たり前の「戦法」を真摯に提案している様子が伝わってきます。書紀が記した「諫言」は勿論、描かれている悲劇の舞台(法隆寺)に相応しい内容に装飾されているとは思いますが、山背大兄王は聞き入れませんでした。
(続く)
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