欽明帝の位置付け 5 

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承前

 欽明天皇に関するあれこれについて考えあぐねていた時、出雲で一つの「発見」がありました。中村1号墳そのものは2002年に見つかっていたのですが、七月の調査で「金メッキを施された馬具」が確認され、しかも鉄製と合わせて「三組」同時に出土した例は、1985年の藤ノ木古墳以来と言う珍しさ。

 横穴式石室(長さ9.4m)を持つ古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め頃)のものとされる同古墳は、島根県出雲市国富町(旧出雲国、出雲郡、宇賀郷、出雲大社の東約11キロ))にあり、丁寧にメッキが施された儀式用の馬具は、いずれも畿内で作成されたものと見られていることから、西暦500年代の後半(欽明の時代)には島根半島の付け根辺りに、畿内のヤマト王朝と深いつながりを持った有力な豪族が勢力を持っていた証しだと云えそうです。

 発掘を担当した出雲市文化財課では、中村1号墳の位置について、

  当時は、宍道湖が現在より西にまで広がっていた。
  国富地域は出雲西部と東部をつなぐ湖上交通の要衝として栄えた土地

と分析していますが、太刀から大王を特定するような銘文が見つからないものかと少なからず期待して、今回のお話を締め括ることに致します。【追記】出雲風土記には、国富近くの「みたみ」の地に関して、

  美談の里 天の下造らしし大神の御子、和加布都努志命
  天地の初めて判れし後、天の御領田の長仕へ奉りましき。
  即ち、その神、郷の中に坐す。故、三太三という。

と記されています。ここに出ているワカフツヌシという神様は天孫系、天津彦根命の子供と見られます。

(終わり)

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