欽明帝の位置付け 4 

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承前

 この様な系譜、系図上の「混乱」を取り上げ始めるときりが無く、又、とても煩雑になりすぎるのでこれ以上深入りしませんが、八世紀初めの段階で既に継体天皇の皇后と、その父親(大王)に関して正史(記紀)とは異なる内容のものが、中央以外の土地で言い伝えられていた事だけは確かなようです。

 また、記紀の記述に見られる「混乱」を、そのまま編集者たちの杜撰さと受け取るのか、それとも敢えて読者を惑わせるための作為と見るのか判断に悩むところではあります…。さて、本題に戻りましょう。そうです、今回の疑問は、何故、欽明の「幼名」または大王となる前の「呼称」が正史で伝えられず、書紀の即位前紀でさえ、

  皇子天国排開広庭天皇、群臣に令して曰はく

などと云う極めて異例な表現を採っているのか?と言う点にあった訳ですが、個人的には、欽明天皇の「幼名」を記述することが、記紀を作成した当時の朝廷を構成する人々の不利益につながる恐れが十分にあったからだと推理しています。

 蘇我色の払拭、出来得れば蘇我氏にまつわる史実全ての「抹消」こそが記紀の大きな目論見であったのかも知れません。日本史、それも古代史に興味がある方は一度、ご自分の手で簡単な系図を作ってみられると良いでしょう。旧HPオノコロ・シリーズ管理人の下手な文章を読むよりも6~7世紀のヤマトが立体的に見えてくると思います。

 欽明帝を核として左右に后妃を配して記紀が伝える皇子皇女を書き込んでみて下さい。そこには欽明天皇と蘇我氏が築き上げた「王朝」の実像が浮かび上がるはずです。そして、記紀が伝える蘇我氏の「悪行」が、実は蘇我氏自身にとって何の「得」にもならない、敢えて言うなら誰かによって仕組まれた自滅行為に他ならなかった「事実」も明らかになることでしょう。

 崇峻天皇、穴穂部皇子、山背大兄王は皆、蘇我「一族」であり、欽明は父方(用明天皇)、母方(穴穂部皇女)いずれから見ても「聖徳」太子の祖父に当たるとされる存在なのですから…。

(続く)

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