欽明帝の位置付け 3 系譜の信憑性

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承前

 つまり、如何に偉大で突出した「存在」であったにせよ、大王位に就くまでは他の王たちと区別するためにも何らかの「呼称」は記録上必要な訳で、それが伝えられていない、と云う事が様々な憶測を呼ぶ結果につながるのです。

 筆者は決して、この欽明帝にあたる人物が『存在しなかった』とは考えていませんが、そうかといって記紀の記述どおりの史実があったとも思っておりません。はてなマークを添付すべき事項は幾つか挙げられますが、最大の疑念は、

  父親が継体帝だとして、母親は本当に仁賢の娘・手白香皇女だったのか?

その辺りに有るように思われてなりません。先ず、年齢的な問題ですが継体天皇の生年は大体450年頃だと推測され、一方、仁賢天皇の産まれた年も継体とほぼ同じなので「皇女」が一世代(20歳くらい)年上の大王に嫁いだとしても、それ自体は不思議なことではありません。
(継体の年齢や生没年などに関しても記紀の間ですら大きな隔たりがあるのですが、ここでは書紀の記述に従っておきます。)

 問題は『播磨風土記』美嚢郡の記述に見られるような伝承の存在にあると言えます。それは、

  仁賢天皇の母親が手白髪命(たしらがのみこと)

とする内容のもので、単なる系譜上のミスなのか、それとも風土記の記述者が名前を取り違えたものなのか、今となっては確かめる術もありませんが、良く似た「系譜」上の混乱は欽明の子・敏達天皇の后妃の一人にも見られます。

 それが西暦575年に立后し舒明天皇の父・押坂彦人皇子を生んだ後に亡くなったとされる広姫で、この人は近江地方の豪族・息長真手王の娘なのですが、実は、書紀によれば、この姫の姉妹と見られる麻積娘子(おみのいらつめ)が敏達天皇の祖父・継体に輿入れした事になっているのです。

 どちらの記述が史実に近いのか即断は禁物ですが、敏達の孫である舒明の和風諡号が『息長足日広額(おきながたらしひひろぬか』と伝えられている点を重視すれば、こちらの伝承を「可」とすべきであるのかも知れません。つまり蘇我氏亡き後、記紀の編集に当たり、息長氏に好意的な誰かが、大王家と息長氏のつながりの深さを「演出」したと云う訳ですね。

(続く)

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