欽明帝の位置付け 2 蘇我氏との関連は?
(承前)
平安初め、西暦815年(弘仁6)に編まれた『新撰姓氏録』は、旧HPオノコロ・シリーズでお馴染みの文献ですが、そこには初代神武天皇を「祖」とする姓は勿論、古代からヤマトで連綿と命を繋いできた貴族豪族達の「出自」が区分けされ記録されています。
その記述から、色々な情報を汲み取ることが可能な訳ですが、例えば、「◎◎」という姓の氏族は「□□」という神様、あるいは人物の末裔であると云った文言を集約すると、歴代の大王の子孫たちだけを抽出することも可能です。
そして、姓氏録の記載事項を信用するなら、第29代欽明天皇を祖先とする子孫氏族は一つも存在しないのです。一方、記紀などの史書は、同帝には敏達帝、用明帝、崇峻帝など大王となった諸皇子の他に多数の男子が居たと記録しています。勿論、その中には早世夭折された方もいますから、全ての皇子たちが「成人」して新たな分家を設けたとは限りませんが「父と息子」の実在が確実視されている人物本人の「影」しか見えないというのも異様なことです。
(勿論、この背景には「悪役」蘇我氏一族の排斥という歴史上の事実が横たわっています。何しろ稲目の娘・堅塩姫と小姉君だけで『十一男七女』を産み、その内、三人が大王となっているのです。後世の記紀編集者たちも流石に、これら蘇我系すべての子孫を消し去る事は出来なかったのかも知れません。更に想像を逞しくすれば「聖徳」太子の子孫が蘇我氏の企みにより完全に潰えた、という筋書きは「蘇我」につながる家系そのものの抹消という課題から創造されたものだと推理することも可能です。)
先に「幼名」が伝えられていないと書きましたが、それは、こう云うことです。昔の大王たちに、我々下々のように「太郎」「花子」といった「名前」が付けられていないことは明らかですが、それでも、王たる人物が生まれて直ぐ「何々大王」と呼ばれる訳ではなく、大抵は養い親の支配地あるいは母親の出自等に因んだ「呼称」が与えられます。
例えば欽明帝の最も身近な存在である親兄弟などを例に取ると以下のようになります。(安閑と宣化の諡号は省いてあります)
継体 男大迹(おおど) 彦太尊(ひこふとのみこと)
安閑 勾大兄(まがりおおえ)
宣化 檜隈高田(ひのくまたかた)
欽明 天国排開広庭
敏達 沼名倉太玉敷 訳語田(他田、おさだ)
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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