欽明帝の位置付け 1 幼名が不明

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 何やら小難しそうな題目ですが、幾ら考えても、これよりマシな文言を見つけられなかったので、取り敢えず書き始めます。日本書紀によれば、皇極二年(643)十一月、蘇我入鹿が「聖徳」太子の直系である山背大兄王たち一族を斑鳩(いかるが)の地で「襲撃」した時、王は『馬の骨』を取って来て寝殿に置き、追撃する者達の目をくらませ一時的に生駒山へ隠れることに成功したのだそうですが、世間で氏素性のはっきりとしない、つまり、この旧HPオノコロ・シリーズ管理人の様な者の事を蔑んで「どこの馬の骨とも分からない」云々と言うのも、てっきり山背王の「故事」に因んだものだと、最近まで思い違いをしておりました…、それはさておき。

 父親の祖先が、当時、既に伝説的な大王中の大王とされた人物(応神天皇)で、母親は先の大王の姉、また母方の祖先を辿れば、何れもが代々大王の位を受け継いできた家系という、飛び切り高貴な「家」の嫡男として生まれて来た人の「幼名」が伝わっていない。
 また、加えて、その人の「子供」からは二十近くの「分家」が派生しているにも関わらず、本人から直接分家した一族が全く存在していない。そんな「大王」が居たとして、貴方は、どのような感想を抱きますか?

 第29代欽明天皇の父である継体天皇(450?~531?)は、第25代武烈(489~506)に嫡子がなかったことから、ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、武烈の姉・手白香皇女との婚姻を条件に謂わば婿入りの形で大王の位を「引き継いだ」人物とされ、欽明(509~571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える存在である、との見方が歴史的になされてきました。

 父・継体については、その出自が色々と問題視されては来ましたが、尾張目子媛との間に生まれたとされる次男・宣化帝の子孫が後々まで宮廷で活躍していることから、その「存在」自体を疑う史家は極少数に留まっています。

 また、もう一人の息子である安閑天皇(466~536)に関しても筆者は独自の「妄想」理論から得た推理により、実在していた可能性が濃いものと確信しています。
 ところが、嫡子であり本家本元に相当する欽明天皇の足元が揺らぎかねない一つの疑念が払拭出来ずにいるのです。それは、こう云う処に端を発します。

(続く)

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