安閑と淀川 3 河内湖と浪速
(承前)
応神天皇が大隈宮を営み、大王の拠点を河内最北端に築くと、その息子・仁徳天皇は父の政策を一段と発展させて、遂に、大阪湾を臨む難波に都を造営します(これが難波高津宮で、現在の上町台地に在ったと思われます)。
ただ当時の北「河内」は、その名前の通り大部分が「水浸し」の湿地帯の状態で、とても人々が田畑を耕し生活することなど考えられない不毛の大地だったのです。それが「河内湖」の名で知られる古代の広大な湖沼なのですが、その広がりを知る手がかりが幾つか存在しています。(古い時代の地図を見れば分かりますが、河内の国を図を東西に流れる『大和川』は江戸期に付け替えられた後の川筋です。六世紀当時の流れではありません、念のため。高津宮の位置は特定されていません)
二つの参考になる資料を比べると「安威川」と「旧淀川」に囲まれた部分などに弱冠異同が認められますが、六世紀ころ河内平野の北部に巨大な「湖状の水域」が存在し、その周辺にも軟弱な地盤の地域が広がっていた様子が容易に想像されます。
日本書紀によれば塩土老翁から『東の方に美き国有り』と聞かされた神日本磐余彦(神武天皇)は船団を組んで「東」の土地を目指し「難波碕」に到ったとき「速き潮」が船の行く手を遮り、その流れの余りの速さに「浪速(なみはや)の国」と名付けたとあり、更に、神武帝の軍勢は「遡流(河よりさかのぼ)」って、一気に河内国の草香邑(くさかむら=日下)の白肩之津(しらかたのつ=枚方)に至ったと「記録」されているのですが、参照した資料の想像図を見る限り、北に向って弓のように突き出した上町台地と千里丘陵との間は狭隘で、河内湖に流れ込む幾筋もの河川の水量と潮の満ち干を考えると、今、われわれが瀬戸で見る渦潮並の「急流」だったと思われ、記紀の編集者たちが少なくとも五、六世紀頃の地形を熟知していたことが見て取れます。
(言葉を変えれば河内湖の存在を前提としていない記述には全く信頼が置けないということです)
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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