田舎の転校生 72 あっという間の六十年
(承前)
上って休んでゆけと何度も勧められた。着く前から何となく会えないような予感がしていた。会わない方が良かったのかも知れないと、理由にならない理屈をつけて、自転車を引きずり大川の土手にそのまま投げ出すと、人気のない河川敷に出た。
気のせいか神楽のお囃子が風に乗って肩の辺りを通り過ぎた。草いきれの中に寝転ぶと、綿菓子のように自在に姿を変えてゆく雲と空が、途轍もなく大きく、そして遠く思われた。
『鳴っているのは始業のベルだ、今朝も遅刻してしまう』敷きっぱなしの布団から起き上がったつもりが、目覚めた顔の前に広がっていたものは、お馴染みの校正室の板壁だった。降版前の予鈴が建物中に響いていた。
頭の上で両端が黒ずみ、時折、光の量を間違える螢光灯が鈍い音をふるわせ、揺れる。燻ぶるアルミニウムの、座りの良くない灰皿に最後の吸い殻を押しつけ、工務室の前に据え付けてある原稿用の箱に校了原稿を入れ、開いたままの扉の向こうに座って居る年配の工務主任の顔に会釈して、きしむ木の階段を昇り降りながら、工場に隣接する本館に渡る。駅までは、そう遠くない。
ビル通用口の重いガラス扉を押し開け、街路まで出た時、正面にそびえるビル群の彼方には、見覚えのある、大きな灰色のマントを着た静脈血色の太陽が沈みきれずにゆらゆら揺らめき、懐かしい金木犀の甘い香りが街の喧躁に溶け込んでいた。
【後書き】この小説はWEBで自分のホームページを作ろうとした頃に書き始めたもので、もう二十年余りの時間が経過している。「転校生」は、まだ、この後も一年以上田舎暮らしをしていたので、神楽の話で終わるべきではなかったと、今になって思う。ただ、書いていた時は、これで良しと納得していたのだろう。
散文を、その後も書く事はなかった。主題がどうのこうのと言う訳では無く、意欲がわかなかっただけである。
十五歳の少年も、六十年という歳月が流れれば、後期高齢者になる。当たり前の話だが…。
(おしまい)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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