息長と河内 4 「黒城」は鉄王の意味か
(承前)
「家記」にある記述のすべてを鵜呑みに肯定する訳ではありませんが、創り物にしては話が込み入り過ぎていますし、現に「不敬罪」が存在していた旧帝国憲法下で公表された意図も定かではありません。(公表された時点で何らかの処分があったとも伝わっていません)むしろ、帝室に限りなく近い一族だとされてきたにも関わらず、その実態がほとんど解明されてこなかった「息長」氏の実像?の一端を垣間見る思いがするのは筆者だけでしょうか!
また、古代氏族の家督(つまり支配地)相続の実態が生々しく伝わって来ます。実在性の高い黒城(くろき)を初代と仮定すると、忍坂彦人大兄王が丁度十代目に当たるのですが、実に、この間「三度」にもわたって「入り婿」を迎えて家の存続を実現しています。王家ではなく河内の豪族でさえそうだったのですから、大王家の当主だった安閑天皇に「子」が無かったから、その血筋(と言うより王の本家)が途絶えたとする記紀の記述に疑念を抱かざるを得ないのですが如何でしょう?
彼の父親が王家の存続を危ぶむ重臣たちによって大王位を「継いだ」事になっているにも関わらず、例え位を継ぐに足る「弟」が居たにしても…。(6世紀の頃には未だ「末子相続」が優先されていたと考えることに異論は無いのですが、皇妃たちに屯倉まで用意出来るのであれば「養子」の一人くらい、どうにでもなるのでは、と思ってしまうのです)
また「日本書紀」が敏達天皇の皇后・広姫を息長真手王の娘としている点について、「皇胤志」によれば麻績郎女が継体帝に嫁いでいることとされている点を踏まえて、以前は「伝承に錯誤があったのでは」ないかと考えていましたが「家記」の内容により、その疑いも解消されます。(註・継体天皇の妃の一人も「広姫、又の名は黒媛」という名前である)
継体一族直系の「娘」であって、かつ息長氏の「本宗娘」であれば大王の后となって当然ですし、一豪族の女が産んだ王子が何故「大兄、おおえ」(世継ぎの王子)と呼ばれたのかも納得できます。
蛇足になりますが、敏達から「用明」「崇峻」「推古」と続いた蘇我氏系の大王位は、「息長足日広額」の諱名を持つ舒明天皇によって継承された後、天智・天武へと受け継がれていったのです。
(続く)
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