息長と河内 3 家記が語る古代史

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承前

 そして上で見てきた人物たち全ての家系図を描いてみると分かるのですが、その中核となる位置に立っている主役がホムタワケ・応神天皇その人に他なりません。家記に戻ります。

  ① 皇后摂政11年、皇太子品陀和気命は武内大臣、
    依羅吾彦などを引きつれ皇后と共に行幸され、息長の姓を与えられた。
  ② 皇后摂政51年、杭俣長日子王の娘・息長真若中女が皇太子妃となり、
    56年、若沼毛二俣王が産まれた。
  ③ 応神8年、杭俣長日子王の求めに応じ若沼毛二俣王が婿入りし、
    弟女真若伊呂弁王と息長の家を継いだ。二人の間には、
    大郎子(大々杼王)、忍坂大中女命、沙禰王、琴節郎女(衣通姫)など七人の子宝に恵まれた。
  ④ 長子の大々杼王は仁徳帝の勅命を奉じて淡海の息長氏となり、
    弟・沙禰王が息長家を相続した。
  ⑤ 允恭帝の頃、沙禰王の娘・真若郎女を淡海の大々杼王の子・
    彦主人に嫁がせ、同帝39年、大々杼命が河内の産殿で産まれた。
    この王子は、産まれて後も河内で育てられ、
    8年を経た雄略帝元年、淡海の父親の許に送られた。
  ⑥ ところが実母の真若郎女が早世したため「異母」福井振姫に随い成長し、
    越前三国の君と号した。この王子は後、天下を治めた。
  ⑦ 継体帝2年春、帝は妃・安部波延女と娘・都夫良郎女を連れて御手洗池で
    「禊祓」をしていた処、娘が池の荒波に誘われて水中に流された。
    当主・息長真手王の一人息子・息長真戸王が、その姫を助けようと
    水中に飛び入り、二人とも亡くなってしまった。
    帝は、若い二人の死を大変哀れみ、死後ではあったが
    姫を真戸王に嫁がせ、垣内の御陵に葬った。
    更に帝は、自らの王子・阿豆王(「紀」では厚皇子)を
    真手王の娘・黒郎女に配し、息長家を相続せしめた。
  ⑧ 息長真手王は継体の諱名をはばかり、大々杼郷の名を廃し、
    高祖に因み「杭全(くまた)郷」と称した。
  ⑨ 息長阿豆王の娘・比呂女命(広姫)は敏達帝の皇后となり
    忍坂彦人太子が産まれた。

(続く)

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