息長と河内 2 喜連の旧家の言伝え

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承前

 井上正雄の労作『大阪府全志』が世に出たのは大正11年のこと。かつて河内「東成郡」に属していた喜連村の項には旧家に伝わる一つの「家記」が紹介されているのですが、書かれている具体的内容は先に見た楯原神社の由緒書や近隣の地で語られる口碑とも奇妙に一致しており、編集者の井上も『其の記する処を見るに、口碑の伝ふる所に符合し、口碑は此の家記より出しにはあらざるかと思はしむ』と述べています。

 では、継体天皇に関わりのある「河内息長」氏の歴史と人物について見て行くことにしましょう。

  1 武御雷男の子孫が国の名を「大々杼国」、郷の名を
    「大々杼郷」と名づけたが、神武帝から大々杼の姓を賜った。

  2 神八井耳命と孝元帝が、大々杼彦仁の時、行幸された。
    此の折、孝元帝の像を彫刻し天神社にお祀りした。

  3 崇神七年、大々杼名黒が帝の詔を受け、新たに二つの社を建てた。
    その一つが祖神・楯之御前社である。
    名黒が祖宗以来領有している所は、
    南は多治比、北は浪速、東は味原までに及ぶ。

  4 仲哀帝は、大々杼黒城に嗣子の無いことを聞き及び、
    日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を黒城の娘・黒姫に配せしめられたが、
    二人の間には杭俣長日子王が産まれ、田別王は狭山池の水を引いて田を作り、
    息長河を掘って水を淀川に注がしめた。

 これまでの古代史では神功皇后の生家を近江息長氏(父が息長宿禰王)とし、その遠祖を「山代之筒木真若王--日子坐王--開化帝」の系譜にだけ求めてきた訳ですが、上記の家伝によれば息長家そのものが「仲哀帝の異腹の兄弟(タワケ)」と「河内の豪族の娘(クロヒメ)」との間に産まれた杭俣長日子王(クマタナガヒコ、『上宮記』では河派仲彦王)から始まった事になり、息長氏が後世にわたって半ば王家と同等の扱いを受けた(西暦684年『八色の姓』制定時、最高位・真人の筆頭が息長氏)背景が、より鮮明になります。

(続く)

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