息長と河内 1 息長川の所在地は

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 聖武天皇(701~756)と言えば何かと藤原氏との関係で語られる事が多く、事実、その母と妻のいずれもが藤原氏出身であるのですが、彼は何故か河内難波の地を好み、天平十六年二月には難波宮を「皇都」と定めたりまでしています。

 その聖武が奈良・東大寺の大仏建立を発願したのは天平勝宝元年も押し詰まった頃でしたが、直接のきっかけは西暦740年2月の難波宮行幸時の出来事にあったと謂われています。
 それが当時、河内国大県郡(今の柏原市)に在った知識寺の盧舎那佛との出会いで、妻子を連れて同寺を訪れた帝は、仏の姿にいたく感激されたらしいのです。

  にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも  君に語らむ 言尽きめやも  
                 (万葉集-4458)

 引用した和歌は、この行幸に付随して、河内国伎人(くれ)郷の馬史国人(うま・ふひと・くにひと)という人物の館で宴が催され、その折、主人である馬国人が大伴家持(おおとも・やかもち,718~785)に贈ったとされる一首なのですが、歌に織り込まれた「息長川」は従来、近江国に在る河川のことだと解釈されてきました。

 しかし、帝が行幸した宮が「難波(なにわ)」であり、その一行を迎えてわざわざ宴席を設えた役人が「河内国伎人」郷の住人だったのであれば、歌の背景として取り上げられた「風景」だけが、遠く離れた「近江」であるはずがありません。

 国学者本居宣長(もとおり・のりなが,1730~1801)は『古事記伝』の中で「万葉に河内国伎人郷とある処なるを、久礼を訛りて喜連とは云うなり。孝謙紀・三代実録などに伎人堤とあるも此処の事なり」と明言している様に、伎人(くれ)とは正に大阪平野に「喜連(きれ)」の名で残っている地域を指していると思われます。
 ここで、お話しが前回(息長と継体)の楯原神社へと繋がります。

(続く)

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