息長と継体 6 鉄や武器の対価は?

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承前

 「崇仏・廃仏」両派による戦闘(587年)で蘇我馬子連合軍に敗れた物部氏の財産である「奴婢と田所」は全て没収され、半分は四天王寺に寄進されましたが、残りの半分は蘇我氏が主張した相続権が認められ、馬子が在り難く頂戴したのです。

 その内訳を見ると『奴婢273人、田186,890代、家屋3軒』となっていますから、物部守屋の資産は、これの二倍あったことになり、私有していた田所は凡そ623ヘクタールだった訳です。これだけの耕地から得られた米はどの位あったのか、古代の収穫量を「5俵/反当たり」と仮定すると三十万俵を超えるのですが、どうでしょう、江戸期の大大名にも負けていませんね。

 --尚、この資料は『四天王寺縁起』から引用したもので、海音寺は何か勘違いをしていたようです。(縁起の記録画像は奈良女子大学が収蔵しています)

 先に黒姫山古墳の主は、当時(5世紀中頃)にあって最大級の武力を有していたと想像されるのですが、其の頃の「河内」国内に、

  長方形や三角形に切った大きめの鉄の板を、皮や鋲で止めたヨロイ

を「量産」できる技術が既にあったとも思われません。であれば、丹比の首長は何処から武具などを「輸入」していたのか?また、その際、彼は何を「対価」として輸出先に渡していたのか?食糧と交換したとも考えられますが、直ぐに思い浮かぶのが「倭王」たちの朝献外交です。特産物、名物、鉱物などを持たなかった倭の国王・帥升は160人もの「生口(奴隷?)」を大陸の皇帝に献じていますし、卑弥呼の「宗女」壱与も、西暦248年頃、30人の「生口」を貢物として差し出しています。
(追記・富雄丸山古墳から長大な蛇行剣が出土し、四世紀後半の倭国内で鉄の加工が進んでいた事実が明らかになったことで、五世紀に入って武具類の国産化が進捗していた可能性が出てきました)

 上でも見たように6世紀末、戦に破れた豪族の使用人たちは全て「奴婢」とされています。同様の事が5世紀に行われていたと考えることは決して不自然ではないでしょう。だとするなら、黒姫山の「王」が鉄製武器・武具の提供者に、戦利品として得ていた「生口」を対価として渡していた可能性が高いのです。更に、河内の首領が思慮深い人物であったなら、輸入先の責任者に次のような要望も伝えたことでしょう。

  こちらで広い土地を用意するし、無償で労働力や食糧を提供することも出来る。
  誰か、有能な人材を送り込んでもらえないか?!

 飽くまでも想像に過ぎませんが、文化の流入は「一方向」に限定されたものだったと考えるよりも、必要に迫られていた地域の住人(支配者たち)が、より積極的に先進地の人々に働きかけたと考えるべきなのではないか?誤解を恐れずに云えば、ヤマトという何も無い文化の後進地に全国から様々な「異文化」が流入した理由の一つが少し見えてきた様に思うのですが、如何でしょう。

(終わり)

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