息長と継体 5 オオドを名乗る武神

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承前

 楯原神社の言い伝えによると、

  武甕槌大神は大国主の教えに従い、国平の鉾を持って天下を巡行した後、
  喜連の地に留まっていたが、

  御孫・大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりに」「国平の鉾を大国主の霊代として」
  祀りなさいと言い残して天昇りされた。

  子孫の大々杼彦仁は神武天皇に祖神のお告げにより「剣」を献上、
  天皇は大熊を切り伏せることが出来た。

  子孫の大々杼名黒は崇神天皇の命に従い二つの神殿を造り十握の剣を
  「楯の御前社」として鎮めた。また、名黒は、

  神功皇后が親征される時、神のお告げを伝えた処、軍事が大変うまく行ったので
  皇后は住吉行幸の折、神籠を立てて祭られた。

らしいのですが、少しでも歴史・古代史を齧った経験のある、つまり、このオノコロ・シリーズの読者である皆さん方は、書き出しの二人?のカミサマの組み合わせがオカシイ事に気づかれたでしょう。

 何故なら、この二神は記紀の『国譲り神話』において敵対した天孫と出雲族の代表選手であり、正に「仇同士」の間柄と言って良い関係にあるからです。又、この由緒そのものが「神武、崇神、神功」などの登場人物名から日本書紀が記した「神話」を下敷きにして創られたものだと考えられるのですが、注目すべきは「大々杼(おおど)」と名乗る一族を武甕槌命(タケミカヅチ)の後裔であると記している点だと云えそうです(つまり「大々杼」家の本質は武神と謂う事になります)。

 やっと肝心の「河内」に辿り着きました。次回は「おおど」の核心に迫ってみることにします。その最大の手がかりになりそうなのが「息長(おきなが)」と名乗った一族の存在です。果たして息長氏は「近江」の豪族なのか、河内に伝わる異色の資料が教えてくれるものとは?そんな内容になります。

 古代「豪族」と、良く耳にしますが、では、その実態は?となると、まるで雲をつかむような話しで皆目見当がつきません。でも、良くしたもので世の中には実に様々な資料が残されているものなのです。その一つを、今回のオマケ話にしてみましょう。小説や随筆の分野で独特な歴史観を披露、今でも多くのファンが居る小説家・海音寺潮五郎が作品の中で『聖徳太子伝暦』からとして引用していたので調べてみたのですが、見つからない。
 彼ほどの人物が資料名を間違えるはずがない、と思いつつ更に調べを進めると、見つかりました!

(続く)


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