継体たちの后妃 3 春日臣は和邇氏なり

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承前

 また垂仁天皇紀三十九年冬十月条の「一に云う」には和邇氏の別な一面が、次の様に記されています。

  長男・五十瓊敷命は茅渟の菟砥の河上に住んでいた。
  河上という鍛名(かぬちな)を召して、太刀一千口を作らせた。
  この時に楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、
  泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部あわせて
  十箇の品部をもて五十瓊敷皇子に賜う。その一千口の太刀をば、
  忍坂の邑に蔵む。而して後に、忍坂より移して
  石上神宮に蔵む。この時に、神、乞して言はく
  『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。
  因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。

 伝承の内容は改めて解説するまでもなく、十品部の発生と「石上神宮」の縁起そのものに関わるものなのですが、ここに記録された「忍坂の邑」が、例の隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある「意柴沙加宮(おしさかのみや)」に比定できるものであれば、上で見た二つの后妃氏族の関係が一層親密で強固なものであったと推測することも出来そうです。

 (「春日臣」は、市河の時代に和邇から姓を変えたもので和邇氏そのものです。また、市河を「物部」連ではなく「物部」首[おびと]の始祖と言っているのは、我々が良く知っている饒速日(ニギハヤヒ)を祖先として、主に軍事を司る「物部連」一族との区別を正史の編集者が意識していた証しかも知れません。

 何れにしても、神宮の祭祀が『太刀』という武器の収蔵から始まり、それが元々、忍坂[桜井市]にあったのだとする話振りには真実味が感じられます。何故なら、允恭の后となり雄略を産んだ忍坂大中姫は息長真若中比売の孫娘にあたるのですから。
 また良く知られた「伝承」では、神功皇后[息長足姫尊]が海外遠征から戻る途中、播磨国で待ち伏せていた先妻の子・忍熊王を撃退したのが和邇氏・春日氏の祖である武振熊命で、記紀では息長の最も頼りになる一族として描かれています)

(続く)

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