継体たちの后妃 2 和邇と息長の血

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承前

 植山古墳、見瀬丸山古墳の二陵墓が築かれた地に向き合うように軽境原宮(見瀬町、牟佐坐神社のあたり)を営んだとされる孝元天皇と、河内青玉繁の娘・埴安媛との子供である武埴安彦(たけはにやすひこ)が『みかど』を傾けようと企てたとする一方、孝元の祖父に位置づけられている孝昭天皇の孫・和邇日子押入命の娘・姥津媛が開化に嫁ぎ、子孫の彦国葺命が謀反を制圧し、和邇氏や春日氏、大宅氏の祖先となったという一連のお話は、誠に良く出来た筋書きのようにも思えますが、帝位は開化から崇神天皇を経て垂仁天皇に引き継がれ、日本書紀は興味深い出来事を幾つも記録しています。

 その詳細は『相撲の元祖は野見宿禰』に譲りますが、垂仁七年、大和当麻の勇士・蹴速との力比べで名を上げた「出雲国の勇士・野見宿禰」が、皇后・日葉酢姫命の逝去にあたって、

  即ち、使者を遣わして、出雲国の土部(はじべ)壱百人を召しあげて、
  自ら土部等を使いて、埴(はに)を取り
  人、馬および種々の物の形を造り……、是を埴輪、立物と名付けた

ので、野見宿禰を「土部(はじ)」の「職(つかさ)」に任じ、土部臣の姓が与えられたのです。大王たちに仕え「赤土」「埴」を以って葬送や祭祀の儀礼を専門に行う集団があり、先ず、和邇氏が「実力」で先任者の立場を勝ち取った「後から」出雲族とされる一団がヤマトに迎え入れられた様です。
 (大雑把に見れば、古墳時代には祭祀葬祭に関わる氏族が三つ[河内埴、大和和邇、出雲土師]存在していた訳です。これが方円墳の基本設計が三つのタイプに分類される事実に対応しているのか?興味深いところです)

 いささか煩雑になりますが、継体天皇とのからみで話を続けると、彼の母親である振媛(ふるひめ)は埴輪を採用した垂仁の「七世の孫=磐衝別命の後裔」ですが、孝昭の次世代で一旦「孝安と天足彦国押入命」の二つに分かれた血統が、系譜上再度つながるのが開化と和邇氏の娘・姥津媛との婚姻なのです。そして更に重要な点は、

  開化天皇と姥津媛との間に産まれた彦坐王と、
  和邇氏の娘・袁祁都媛の息子が山代之大筒木真若王

その人であり、同王こそ息長足姫尊(神功皇后)、息長宿禰王親子の祖先なのですから、ここで和邇と息長の二つの血脈が合流し、継体が祖と仰ぐ応神朝が花開く道筋が出来上がるのです。

(続く)

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