継体たちの后妃 1 香久山と赤土

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 数少ない古墳巡りを体験する過程で、断続的に脳裏をかすめ続けた不鮮明なイメージの断片が、一つのまとまった「姓」として浮かび上がるまでには相当の月日を要した。蘇我氏の足跡を辿り大和橿原の大きくうねる台地を歩き回り、その巨大さで知られる見瀬丸山古墳に登った後、ほぼ真東にある植山古墳を目指して進む…。
 すぐ、目と鼻の先にブルーシートに覆われた小山が手に取るように見えていたのに、畦道伝いに民家の間を抜けて到着するまで結構、時間をとられたように思う。

 古墳は、周囲全てに宅地開発が進められ往時を偲ぶよすがも無いが、陵墓を覆う赤土だけは今でも目の底に焼きついている。何しろ、すべて赤い土の小山なのである。古代史に興味のある読者なら、この墓の主が若しかすると推古女帝と、若くして亡くなった息子との合葬陵であった可能性があり、その石室の一つから近年注目を集めている阿蘇溶結凝灰岩(通称=阿蘇ピンク石、馬門石)製の石棺が見つかったことをご存知のことでしょう。大和の平定を進めていた神武天皇が夢の中で、

  天香山の社の中の土(はに)を取りて、
  天平瓮八十枚を造り、合わせて厳瓮を造りて
  天神地神を敬い祀れ。また厳呪詛をせよ。
  如此せば、仇、自ずからに平き伏ひなん。

と「天神」からの教えを聞いたとされ、時代を経た崇神十年九月、謀反を企てた孝元天皇の皇子・武埴安彦が、

  妻の吾田媛を密かに遣わして倭の香山の土(はに)を取りて、
  領巾(ひれ)の頭に包みて祈みて曰さく
  『これ、倭国の物実』と申した

ともあって、香具山の「土」そのものが大和では最も神聖で霊力のある存在だったのですから、橿原の軽の里一帯に広がる「赤土」に、もっと早くに注目すべきだったのですが、当時は蘇我氏と「軽」の関連ばかりを追いかけており、全く、迂闊であったとしか言いようがありません。(この武埴安彦たちの反乱を制圧した人物が開化帝の兄で四道将軍の一人・大彦命と、和邇臣の遠祖である彦国葺でした。大彦命は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にあるオオヒコに比定できるかも知れません。)

(続く)

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