継体と三嶋 1 河内の息長氏
継体天皇と二人の息子たちの足跡を追いかけて、河内の息長氏にたどり着いたまでは良かったのですが、この先、何処で何を探すべきなのか皆目見当が付かず、一箇月あまり時間を無駄にしてしまいました。見え隠れする複雑な補助線を効果的に引けないというのか、取っ掛かりが見えてこないと言うべきなのか、まぁ要するに書くべき適切な主題が見つからないのです…。
などとぼやいてみても仕方がありません、ので、これまでの取材で手にした材料を幾つかご紹介してお茶を濁すことにします。オマケ話の盛り合わせ、とでも考えて貰えば良いかと……。
河内の「息長氏」から分家したのが近江の継体一族だとする旧家の「家記」が、どこまで事実を伝えたものなのかは分かりませんが、かつて大阪の南部を流れる「息長川」が存在していたのはどうやら本当のようで、大阪高津の住人、森謹斎幸安が宝暦三年(1753)に表した東京国立公文書館収蔵の『摂津国難波古地図』には杭全(くまた)付近を流れる想像上の川筋が示され、享保二十年(1737)に出版された『五畿内志』下巻「摂津志二」にも、
今川、旧名河内川は河州丹北郡より流れ、
本郡喜連(きれ)の西に至り、息長川と曰う。
と明確に書き記されています。また筆者は未見ですが『摂津名所図鑑大成』巻の六という資料には、
生長川は桑津の東にあり、世俗、翁川という。
また当時は今川とも言えり。
一説に、神功皇后の御父、生長足彦命の旧地とも言う。
等という識語が添えられているようで、喜連・杭全の地に「生(息)長川」が流れ込み、かつ息長氏に関する伝承が江戸期まで語り継がれていた事が良く分かります。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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