源義経 7 論争を招いた告文
(承前)
林羅山が、一体どのような資料・伝聞を基に「義経生存」説を残したのか、今となっては知るすべもありませんが、権力中枢、つまり徳川幕府そのものが生存説を政権運営にとって益のあるものだと認識していた証にはなるでしょう。
その後、著名な探検家・間宮林蔵(まみや・りんぞう)の樺太・大陸遠征も「義経伝説」の証明という目的があった、とされていますが、伝説探しはこの位にして、今回の主題にとりかかりましょう。
それは、
源義経など、 清和源氏といわれる一族の祖先は一体誰なのか
という素朴な疑問です。皆さんも、よくご存知のように元来、日本の苗字は『四姓』と称される四つの苗字(源平藤橘)に集約されたもので、それは全てお上から賜わるものであったのです。
そして義経や頼朝の祖先は清和天皇-貞純親王-経基王-源満仲-頼信-頼義-頼義-義親-為義-義朝とする考え方が最も一般的だったからこそ、清和源氏と呼ばれたのです。
ところが明治三十三年、星野恒が一枚の古文書を発見したことで論争が巻き起こります。それは経基王の孫にあたる源頼信(みなもと・よりのぶ,968~1048)が岩清水八幡宮に納めた告文で、そこには、
先祖の本系を明ら奉れば、大菩薩の聖体は忝くも某が二十二世の氏祖なり。
先人は新発(満仲)、其の先は経基、其の先は元平親王、
其の先は陽成天皇、其の先は清和天皇
と記され、明らかに陽成天皇-元平親王の子孫だと自称しているのです。頼朝が開幕を前に1182年に作成したとされる清和系図と、源氏の始祖とも言うべき頼信が1046年に残した陽成系図、果してどちらが正しいのでしょう?
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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