高良と竹内宿禰 3 宇佐神宮が金を約束

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承前

 天平年間における朝廷最大の関心事と云えば「藤原広継の乱(西暦740年)」であり、東大寺の盧舎那仏が建立され、国内で仏教の存在が一段と重みを増した時期でもありました。広継が任地である北九州で乱を起こしたと聞いた聖武天皇は、その討伐平定にあたって宇佐神宮に「戦勝」祈願をしていますが、これは本邦随一の武神とも言うべき宇佐八幡神の神威を是非とも発揮して欲しかった帝の本心を良く表した願い事でした。

 その祈りの深さは終戦後、すぐ同社の神宮寺(弥勒寺)に三重塔を寄進したことに象徴されています。また、宇佐神宮そのものの創建が聖武帝自身の勅命によるものであり、帝の願いが大仏(仏教)と同様に「国家鎮護」にあったのだとすれば、八幡神は正しく狙い通りの役割をきっちり果たしたと言えそうです。

 更に仏教への傾斜を進めた聖武は西暦745年に東大寺の大仏建立を発願しましたが、当時、日本国内では大仏像の鍍金用の金が採掘されていなかったため朝廷は大陸まで買い付けに行く算段までしていたのです。ところが翌々747年、突然、宇佐の八幡神が『黄金を必ず国内で産出させる』と云う異例の託宣を発し、その予言通り749年になって百済王敬福が「黄金900両」を帝に献上、大変喜ばれた天皇は渡来系の貴族を特別に異例の昇進をさせたことは、別の旧ホームページで詳述した通りです。

 天皇の期待通りに神威を如何なく発揮した宇佐の八幡神は西暦749年、東大寺の守り神として手向け山に勧請され、遷座第一号の先例となりました。後、桓武天皇により都が平安京に移されますが、九世紀の半ばに至って、再び宇佐神が『吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との神託を下し、今の地に貞観二年(860)に社殿が造営されたのです。

(続く)

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