ニギハヤヒと巨石 2 天孫族と磐
(承前)
推理小説家で歴史にも造詣の深かった松本清張(1909~1992)が『火の路』という作品の中で、岩船が遠く離れたペルシャに源を発する拝火教(ゾロアスター教)との関連を示唆して話題になりましたが、上の画像からも、その特異な形象と大きさが伝わると思います。
近畿地方には、この「岩船」に匹敵する石のモニュメントが他にも存在しています。JR山陽本線(神戸線)宝殿駅から南西におよそ1.5㎞の地点にある物体について「播磨風土記」は次のように伝えています。
大国の里、この里に山あり。名を伊保山という。帯中日子命(仲哀天皇)
を神に坐せて、息長帯日女命、石作連大来を率いて、
讃岐の国の羽若の石を求ぎたまいき。そこより渡り賜いて、未だ御廬を定めざりし時、
大来、見顕しき。故、美保山という。(中略)
原の南に作石あり。形、屋のごとし。長さ弐丈、広さ壱丈五尺、
高さもかくの如し。名号を大石という。
伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。 [印南の郡、大国の里]
現在、この岩船を御神体としてお祀りしている生石神社(おうしこ)の祭神はオオクニヌシと少彦名命の二柱ですから、物部守屋(587年没)の伝承も含めて天孫族との深い関わりが感じられる処です。また、神功皇后が石作連と一緒に、大王陵築造に必要な石材を調達するため、讃岐国綾歌郡綾上村羽床まで出向いた逸話の直後に「大石」を照介している点も、帝室と二つの土地との古くからの繋がりや、息長氏との縁も併せて「物語」の一部に取り込んだ編集者の目線が何処に在ったのかを強く印象付けます。
また石の宝殿から南西450mほどの場所に大山祇神社が建ち、その南東約400mには加茂御祖神社(祭神は建角身命タケツノミ=少彦名命)も鎮座していますから、この「大国の里」と呼ばれた地に或る「美保山(伊保山)」そして竜山一帯は大王たちの石切り場として千数百年前には既に開発されていたのだと思われます。(数百屯もの重量物を運ぶ事が可能だったのか、素朴な疑問が湧きますが、採石場や生石神社から直ぐの所を流れてる川の流れを利用する予定であったことは十分考えられます)
真の継体天皇陵ではないかと考古学の専門家たちが推定している大阪高槻の今城塚古墳からも竜山石の破片が出土していますから、神功皇后とも縁の深い大王の石室や石棺材として播磨の竜山石が使われたのでしょう(「竜=龍」は世界の頂点に立つ者即ち、大王を意味する文字ですから、磐を神聖視する一族が開発そのものを指導したのかも知れません)。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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