カモと天孫族 上 出雲と銅の文化
「かも」と名の付く地方自治体の数は加茂市、美濃加茂市など幾つかに限られていますが、町や郡或いは地区の名、更には「字(あざな)」を含めれば可也の数になると思われます。全国的にみて最も良く知られた「かも」と言えば、京都に鎮座している上下の社であることは論を俟ちませんが、考古学の分野で著名なのは島根県の加茂岩倉遺跡だと言って良いでしょう。
専門家たちの間では「出雲神話」は確かに存在するが、古代出雲の地には大和に対抗できるような勢力は存在しなかった、と云う評価が定着していた昭和58年、斐川町神庭(かんば)西谷の一角から358本もの銅剣が一挙に出土し、更に翌々60年には至近距離の場所から、銅鐸六個と銅矛十六本が一緒に見つかり、国内外から多くの注目を集めました。
出雲での「発見」はそこで終わる事はありませんでした。。荒神谷遺跡の興奮が落ち着き始めた平成八年(1996)今度は、大原郡加茂町(現・雲南市)の農地から銅鐸三十九個がまとまった形で出土したのです。この加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡は、直線距離にしてわずか3.5㎞ほどしか離れていません。また、古代史に興味を持ち記紀の文章に日々触れてきた筆者にとって、別な意味で二つの遺跡のある土地は気がかりな場所だったのです。
いつもブログで利用する「新撰姓氏録」によれば『角凝魂三世の孫、天湯河桁命の後裔』を称する鳥取連の祖は、
垂仁天皇皇子、誉津別命 年向三十不言語 于時見飛鵠 問曰 此何物 爰天皇悦之
遣天湯河桁尋求 詣出雲国宇夜江 捕貢之 天皇大嘉 即賜姓鳥取連
垂仁皇子ホムツワケのために遠く出雲の「宇夜江」まで「鵠(くぐい)」を追いかけて捕獲し献上したので、その功績を天皇が大変喜ばれ「鳥取連」の姓を賜ったとあります。このホムツワケの白鳥伝説について日本書紀は垂仁二十三年冬十一月条で次のように記しています。
天皇、大殿の前に立ちたまえり。誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(クグイ)有りて大虚を度る。
皇子仰ぎて鵠を観して曰わく「是、何物ぞ」とのたまう。
天皇、即ち皇子の鵠を見て言うこと得たりと知ろしめして喜びたまう。
左右に詔して曰わく「誰か能く是の鳥を捕えて献らん」とのたまう。
是に、鳥取造の祖、天湯河板挙奏して言さく「臣、必ず捕えて献らん」と申す。
即ち天皇、湯河板挙(板挙、此れをば佗儺[タナ]と云う)に勅して曰わく、
「汝、是の鳥を献らば、必ず敦く賞せん」とのたまう。時に湯河板挙、
遠く鵠の飛びし方を望みて、追い尋ぎて出雲に詣りて捕獲えつ。
書紀では、上のように皇子が鵠の姿を見て言葉を話す様になったので、その鵠を「鳥取造の祖」に捕まえさせたと云う簡略化された筋書きに成っていますが、古事記は品牟都和気命(本牟智和気王)の出生譚を詳しく「物語り」皇子は山辺の大鶙と云う人物が「高志国の和那美」で捉え持ち帰った鵠を見ても、話し始めることは無かったと伝え、更に、天皇の夢に顕れた神が『我が宮を天皇の御舎の如く修理めたまわば、御子必ず真事とわん』と託宣、夢から覚めた垂仁が太占に占うと、その祟りが「出雲の大神の御心」であることが判明したのです。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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