剣彦たち 6 鉄を求めて遷都
(承前)
改めて云うまでも無く忍坂大中姫という女性は、応神天皇の子・稚渟毛二俣王の娘であり息長家の血筋を代表する人物であり、かつ星川皇子の反乱を「予言」した雄略帝の母親でもあります。また、安閑天皇は文字通り応神王朝を「復古」させた継体天皇の長子なのですから、この人物も息長一族の象徴と云えるでしょう。
允恭朝と葛城氏との「対立」の構図は、日本書紀が允恭五年秋七月条で『葛城襲津彦の孫、玉田宿禰の不敬と謀反』の主題で書き残していますが、これも古事記は伝えていませんから、恐らくその事実は存在せず、帝室と葛城氏との間が草創期の結びつきからは格段に疎遠になり、遂には帝側から疎外されるようになった経緯が、玉田宿禰という「孫」の反乱という表現を生んだものと思われます。
垂仁天皇の治世を四世紀半ば頃、そして允恭天皇の時代を五世紀半ば頃だと推定すると、この一世紀の間に大和の政権の枠組みを大きく変化させたものが在ったと考えるべきでしょう。筆者は、それが「古い金属の銅から、新しい金属の鉄」への転換であったと想像しています。垂仁朝で語られている「天日槍」の来朝は正に「新たな製鉄文化」の到来であり、景行天皇の近江国滋賀「高穴穂宮」への遷都は、大王の権力基盤そのものが「鉄」に大きく依存することとなった事実を示しているのです。
そして、帝室の本拠地まで移動させた原動力の一つとなったのが、垂仁の娘婿として朝廷の一員に加わった稲背入彦命ではなかったのか?とも思うのです。『古い神は落ちぶれて、人の里からも消え去』らねばなりません。卑弥呼が生涯愛でていた鏡の煌めきや、五十瓊敷入彦命が精魂込めて鍛え上げた青銅の鋭い剱も、歴史を刻む時が産んだ錆びには勝てなかったのです、それはさておき。
銅剣を大和磯城の武器庫忍坂に収めた五十瓊敷入彦命皇子は、河内の鳥取の宮に住んで「河上部」という部曲まで設けたと古事記は伝えているのですが、その子孫の消息は歴史の彼方に掻き消えています。垂仁という諡号を贈られた大王は実在したと考えられているにも関わらず、その長子(ホムツワケ)と第二子(五十瓊敷入彦命皇子)の何れもが行方知れずなのは怪異と云うしかありません。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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