剣彦たち 5 負け組の末路

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承前

 オノコロ共和国(旧HP)の読者であれば、同じ趣旨(特定の氏族を名指しで貶める)の「話」が安閑天皇・大伴金村大連と凡河内味張との間の「事件」として語られていることを想起された事でしょう(同じ様な伝承の原型は国譲り神話の建御名方神の服従にあります)。孫の金村は祖先に少しは遠慮でもしたのか、凡河内氏が差し出した田地は「狭井田六町」だったと書紀は伝えています。

 旧河内国若江郡の地に、さして大きくもない御野(ミノ)懸主神社が建てられた年代は明らかではありませんが、柏原と八尾の両市にまたがる一帯をかつては大県郡と称して、神社のある里は「玉櫛の庄」と呼ばれていました。祭神は角凝魂命と天湯川田奈命のコンビです。はて、どこかで見た組合せだと思いませんか!そうです、冒頭で見た白鳥を捕まえて献上した鳥取連が同じ神様を祖先として祀っていました。通常、同一の神様(氏神)を祀る氏族は「同じ祖先を持つ」者だと考えられますから、河内の大県を治めていた御野(ミノ)懸主という豪族も天津彦根命の末裔だったのです。

 それを裏付ける資料が天津彦根命を祖とする系図に記された記述で、天目一箇命の孫・彦己曽根命の添書きに『河内国大県郡、大懸主』の注記が見られます。そして、問題の凡河内国造と都下国造の名前が並んでいます。(御野懸主神社のほぼ真南に高井田という名の土地があり、大和川を見下ろす高台に天湯川田神社があります。祭神は勿論、あの天湯河田奈命なのですが天児屋根命とオオヒルメムチを合祀していますから、時代の移ろいを感じさせます。なお、古代製鉄の代表的な大県遺跡は神社の北側に位置しています)

 日本書紀允恭二年春二月条は、忍坂大中姫の立后と皇子皇女の名前を記した後、突然、一つの昔話を始めます。皇后が未だ実家で母親と暮らしていた頃、独りで「苑」の中で遊んでいた時、たまたま通りかかった闘鶏(ツゲ)国造が、馬に乗ったまま垣根の向こうから「嘲る」ような口ぶりで話しかけた。

  『お嬢ちゃんに、上手く薗が造れるのかな?』

  『ところで、あんたの前にある、そのアララギを一本呉れないか』

 大中姫は、馬に乗った者にアララギを与えながら『これを何に使うのか?』と尋ねたところ、その人物は『何、山に行くと虫が寄ってくるだろう。おっぱらうのさ』とぞんざいに答えて去りました。一言の礼も述べずに立ち去った男の無礼な態度を決して忘れていなかった皇后は、後年、その者を探し出し処刑しようとしたのですが『額を地に搶けて』只管命乞いをしたので「死刑」を赦し「その姓」を貶して「稲置」にすることで決着した(恩を垂れた)という訳です。
 ここでは田畑の献上が省かれていますが、上で見た御野懸主の例と趣旨は全く同じであることが分かります。つまり、ここでも天津彦根命の後裔は「貶められ」帝室に刃向い敗れた者という印象が与えられているのです。

(続く)

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