忍坂と天津彦根命 2 三人の大中姫

ikune.JPG
承前

 確かに「おしさか(おっさか)」は帝室にとって大切な土地柄だったようです。神武天皇が大きく和歌山紀国まで迂回した後、大和に入ろうとした時「大室を忍坂邑」に作って大いに敵を打ち破ることに成功、また大王の分身だと推測される五十瓊敷入彦命は自ら指揮して茅渟の菟砥川上宮で作り上げた「剱千口」を忍坂邑に蔵(おさ)めて、国の軍備を盤石なものに為したと伝えられて来ました。

 そして「ノビル」の逸話で良く知られている人物が第十九代允恭天皇の皇后、忍坂大中姫です。雄朝津間稚子(オアサヅマワクゴ)宿禰という一風変わった名の持ち主である允恭は、どうも生まれつき病弱虚弱であったらしく、反正の跡を継いで欲しいと願う「群臣」の度重なる要請を「篤い疾」を理由に断り続けました。

 臣下たちの憂い嘆息している状況を見ていた皇后は水も凍る真冬の師走、身体を張って夫を説得、遂に帝位に就くことを承諾させたと日本書紀が記しています。この大中姫の勝気な為人を示す話が例の「闘鶏国造事件」の顛末なのですが、二つの伝承に潤色誇張が加えられていたにせよ、息長家を代表する強い女性として半ば象徴化された人物であったことは間違い無さそうです(その意味では応神天皇の母に位置付けられてきた息長帯比売命の像とも重なり合います)。

 もう一つ、忍坂と帝室を直接結びつける「物証」があります。それが、国宝の隅田八幡人物画像鏡と呼ばれる物で、考古学に興味のある方ならWEBや刊行物などで画像を見ておられるかも知れません。この鏡の製造年代や銘文解釈については諸説ありますが「意柴沙加宮」という文言が「おしさか」に存在した「宮(貴人の住む大きな建物)」を表したものだと考えられています。

 また「癸未年」を443年と仮定した場合には、その頃の大王として允恭(376?~453)が該当し「男弟王」には皇后忍坂大中姫命の兄弟である「意富富杼王」(継体帝の祖先)をあてることが出来るとする見方があります。鏡が作られた時代と銘文に登場する様々な人物の実像については未だ全てが解明されたという訳では無いのですが、大和の忍坂が古代において政権の一拠点となっていた可能性が十分ありそうだ、という事なのです。

 大中姫を巡る一つの推理=ヤマト初期王朝の礎を築いた大王の一人が垂仁天皇です。彼と後の皇后である日葉酢姫命との間に生まれた娘の名を大中姫命と言い、五十瓊敷入彦命が石上神宮の祭祀を任せたいと願った相手が妹の大中姫命でした。息長氏で最も有名な人物と言えば外国遠征譚で知られる息長帯比売命(神功皇后)だと思いますが、彼女の夫の先の妃の名前も大中媛命と言い、彼女の父親は皇后と同様に息長系統に属する人物でした。

 そして、今回取り上げている允恭天皇の皇后が息長の血脈を受けた『忍坂大中姫命』なのですから三人の大中姫という存在自体が何らかの意図を以て記紀の中に演出された可能性があります。また、日葉酢媛命という女性は伝説の彦坐王と天御影命の娘・息長水依姫の孫娘に当たり、父親は丹波道主王でした。つまり帝室と息長家は天津彦根命系と和邇日子押人命系の二流で複雑な婚姻を重ねて、深遠な閨閥を生み出している訳です。更に、応神天皇の皇后の名が仲姫命であったことも偶然とは考えられないでしょう。名前に含まれる「中」は神と人の間を取り持つ存在を意味しているのかも知れません。

(続く)

この記事へのコメント