忍坂と天津彦根命 1 押坂と息長氏

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 「万葉集」の題詞(漢字による詞書)によれば、第三十四代舒明天皇(593~641)は、登極間もなく即位儀礼の一環として天香久山に登って国見を行ったと見られ、巻一の冒頭近くに載せられた有名な一首は、その折、詠まれたものだとされています。それが、

  山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
  國原波煙立龍 海原波加萬目立多都 カ怜國曽 蜻嶋 八間跡能國者   (註:カ=忄+可)

  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば

  国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

という内容の歌です。古文の授業で習った記憶を持っておられる読者も居ることでしょう。舒明帝は西暦629年春一月に「大臣(蘇我蝦夷)、群卿」の要請を受ける形で位を継いだのですが、先帝推古が跡を継ぐべき資格を有した二人の皇子(田村皇子と山背大兄王[厩戸皇子(聖徳太子)の息子])に語ったとされる「詔(みことのり)」の内容が明瞭さに欠けていたこともあって、即位までの間ごたごた騒ぎが続けて起きており、朝廷内での不協和音は後に重大な事件を引き起こす伏線ともなって、山背大兄王一族に最悪の悲劇が襲い掛かる結果を齎した事に通説ではなっているようなのですが…、それはさておき。

 六世紀の後半から七世紀半ばまで凡そ一世紀は「蘇我氏の全盛期」であったと考えられており、その様子を日本書紀が次のような文章で書き留めています。

  元年の春正月、皇后(皇極)、即天皇位す。蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故のごとし。

  大臣の児、入鹿、更の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威父より勝れり。

  是に由りて盗賊恐懾げて、路に遺拾らず。

 物取り稼業の輩ですら入鹿の「威(いきおい)」に恐れをなして、路傍に誰かが落とした遺物すら拾おうとはしなかった、と云うのですから都周辺の極めて緊張した雰囲気が伝わってきます。飛鳥の岡本宮を皮切りに田中宮、厩坂宮そして百済宮と居を移していた舒明帝が亡くなったのは十三年冬十月のことでしたが、この時、殯(もがり)の席で「誄(しのびごと)」を述べたのは、若干十六歳の東宮開別皇子(天智帝)その人でした。

 「息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカ)」の諡号で知られる彼は、確かに敏達と広姫との間に生まれた押坂彦人大兄皇子の嫡男で、母方から息長氏の血統を受け継いでいます(広姫の父は息長真手王)。そして父の諱に「押坂」の文言が含まれているのだから、大和の忍坂村に陵墓が造成されたのは当たり前だ、つまり土地に深い縁があったのだという解釈が一般的に流布されています。

(続く)

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