松平定信と写楽 13 写楽斎と洒落斎
(承前)
斎藤月岑の家での一コマ・これはフィクションです。
『うちの二丁目で店を出している多吉は知ってるね。頼みたい事があるんで、
来るように言っておくれ。わたしは離れに居るから』
口数の少ない良助は『承知いたしました』とだけ答えて雉子町の表具師多吉の店に足をはこんだ。小半時もした頃、良助と連れ立って多吉が離れの隠居部屋を訪れた。
『旦那様、多吉を連れて参りました』『御用がおありだそうで、多吉でございます』
『ご苦労様、まぁ、お入り』
八畳ほどの部屋に入った多吉の目に入った物は、畳三枚分ほどにも広げられた画と版画で、ざっと百枚ほどはあった。画よりは、版画の数が数倍勝っているように見えた。
『これなんだがね、適当な巻物に仕立てられるかい?』
『そりゃあ、日にちさえ頂ければどうとでも致します。』
『そうかぃ、じゃあ是非そうしておくれ。急ぎはしないから、お前の都合で良いからね』
『有難うございます、早速、仕度を整えてから、参じます』
『旦那様が、このような版画をお集めとは知りませんでした』
多吉が手にした錦絵に描かれていたのは歌舞伎役者五代目市川団十郎(蝦蔵)の大首絵だった。
『これはね、わたしの、おっかさんが集めたものですよ。芝居が好きなのは、お前も知っているだろう』
『そうでした、そうでした。おかみさんの芝居通を、つい忘れておりました。
すると、この絵も、随分と先からお持ちなんでしょうね』
『部屋に飾るのは面はゆくて、文函から出しては眺めたそうですよ、昔ね』
『こちらには寛政六年とございますね』
『そうかい。それなら、わたしよりも、ずっとおっかさんとの付き合いが長いわけだ』
三世瀬川菊之丞扮する「おしず」を描いたその版画にも団十郎と同じ絵師の名前があった。市左衛門は、東洲斎写楽という名の絵師の事を、長谷川雪旦なら知っているかもしれないと思った。雪旦は江戸っ子で、確か、若い頃には流行の狂歌本にも挿絵を画いたことがあると聞いている。谷口月窓先生に尋ねても良いのだが、あの方は伊勢の生まれ、それに浮世絵とは縁のないお方だから、やはり今度、雪旦が訪ねてきた折、尋ねてみようと決めた。(小説風の記述はここまで)
「月岑日記」天保六年(1835)三月十五日の条に『今日より、多吉、浮世絵古画巻物仕立てに来る』とあるのにヒントを得て劇の一場面を創作してみたのですが、長谷川は1778年生まれの江戸人ですから、写楽の浮世絵版画は知っていて当然です。月岑は『増補浮世絵類考』序の中で、式亭三馬の「按記」が入った「浮世絵類考」を参照したと明記していますが、瀬川富三郎の『諸家人名江戸方角分』を見たとは書き残していません。
従って、上に述べた瀬川が記載した1817~1818年の時点で「写楽斎・八丁堀住」の本名も通称も不明の人物が「東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛、八丁堀地蔵橋住」の人物として特定された「情報源」だけが謎として立ち塞がるのです。月岑が決していい加減な情報を鵜呑みにするような人柄で無いだけに、余程確かな人物から得た「誰も知らない・語らない」はずの貴重な特ダネと考えたに違いありません。
ところが、今回の推理考において「方角分」の写楽斎に付された「✕印」、谷口月窓の名前や地蔵橋の書体、山學と秋山女子に関わる幾つかの事項、故人印の不備などなど、瀬川が著したとされる「方角分」の記述内容に多くの不審な点があることが分かったため、写楽斎そのものの存在は勿論、地蔵橋の通り名も果たして正しいものであったのか慎重に見直す必要がありそうです。
このページを書き進める過程で筆者は谷口月窓という人物の重要性に気づき、出来る限り多くの検証が可能な資料を集めようとしたのですが、師の月僊が様々な足跡を残しているのに対し、画の奥義を伝授されたとする月窓の実像に迫ることのできるだけの良質な証言をほとんど得ることが出来ませんでした。明治維新前夜まで長生きした月窓本人ではなく母親の「芝居見物」怪談が薄田泣菫によって伝わりますが、彼自身の人柄については筆まめな月岑すら片言も語っていないのです。不思議な絵師というほかはありません。
月岑は、もう一つ「増補浮世絵類考」の中で独自の情報を開示しています。それが写楽を『天明寛政の人』と紹介している点です。これは『写楽=斎藤十郎兵衛』だとする見方と基を一にしたものだと考えられますが、十郎兵衛は確かに宝暦十三年(1763)生まれですから天明期(1781~1788)に画を描いていて不思議ではありませんが、未だ親掛かりの十代の時分から家族みんなと生活を共にしつつ浮世絵を描き続けていたとでも言うのでしょうか?甚だ不可解な証言のように思えます。
最期にもう一つ、今度は、式亭三馬に関わる疑問というか謎めいた彼の態度についてです。三馬の代表作『浮世風呂』『浮世床』の挿絵を描くなど、三馬の作品を多く手掛けている浮世絵師に歌川国直(うたがわ・くになお,1793~1854)という人がいます。画号からも分かる通り有名な歌川豊国の門人である彼は「写楽翁、写楽斎」の別号をもっていたのです。勿論、国直が写楽と別人であることは言うまでもありませんが『写楽斎=しゃらくせい』そのものが世代を超えた江戸町人の人気ペンネームだったのであれば、洒落斎の号を自らも名乗る三馬が「方角分」の写楽斎の三文字を、そうそう容易く信用しただろうか--、そんな思いも交錯します。
(終わり)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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