石川五右衛門 2 人気の元は歌舞伎芝居
(承前)
今、三十代以上の皆さんなら、かつてのTV人気バラエティ番組に出演していたザ・ドリフターズの加藤茶が、よく時代劇風のコントで、ぼうぼうに伸びた大きな鬘(百日かづら)を被り、派手な色柄のドテラ(本来の格好は黒のビロード地)を身にまとい、大人の腕ほどもある太い煙管(きせる)を持って見栄を切るシーンがあったことを覚えているかも知れませんが、あの五右衛門ルックの原典は、勿論、歌舞伎役者の扮装から来ているもので、江戸時代・寛永4年(1851)正月に中村座で四代目市川小団次が演じた演目などがお手本になっている、ともされています。
また、浄瑠璃の世界では既に元禄以前(1700年頃)に五右衛門物が演じられており、現在でも出し物として有名な『楼門五三桐』(並木五兵衛作)は安永七年(1778)に初演されているので、五右衛門という役柄は歌舞伎芝居にとって無くてはならない悪(わる)キャラクターだったと言えそうです。以後、歌舞伎の世界では彼を『義賊』として扱い、演じられることが多かったため、史実よりもお芝居の世界・虚構の世界での活躍ぶりが世間一般に広まり、そのため様々な「説」も生まれたらしいのですが、例によって盗人・五右衛門の出自は明確ではありません。
WEBで調べてみても、余り多くの資料を見つけることが出来ませんでしたが、
秀吉の時代に活躍した三好家の家臣・石川明石の子
遠州浜松の生まれ
とする説があるかと思えば、
伊賀の石川村の生まれで、忍術の修行をしていた。 生まれは伊賀・交野郡である
丹後守護・一色家の家臣であった石川秀門の次男で石川五良衛門がモデル(丹後旧事記)
とするものもあり、正に諸説紛々・五里霧中といったありさまです。ただ、関西の住民という立場からすると、彼の苗字「石川」は、やはり近畿地方を流れる、あの石川から頂戴したのではないか、と思いたいのです(現在の大阪府南河内郡太子町という所には「石川五右衛門が腰をかけ休息した」とされる石が残っている)。時代は全く異なりますが中大兄皇子や中臣鎌足に協力した蘇我氏の一族・石川麻呂の名前の由来である、あの「石川」です。
それはそれとして、江戸の庶民が盗賊の首領であり釜煎りという前代未聞の極刑に処せられた大泥棒に、例え空想世界とはいえ歌舞伎の舞台空間の中で、
石川や 濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
といった辞世まで詠ませてやり、京都の古刹・南禅寺山門という格好の晴れ舞台をしつらえて、五右衛門に、
絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とはちいせえ、ちいせえ。
と大見栄を切らせた、その心情的な背景には豊臣家、つまりは豊臣秀吉を出来るだけ悪役に仕立てたい-つまりは江戸幕府・徳川家の立場を良くして置きたい、というお上の意向が陰で強く働いていたのではないか、と勘ぐりたくなってきます。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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