信長と神様、仏様 1 スサノオ伝説
元亀二年(1571)九月二十一日、京都・比叡山を完全に包囲した織田信長(おだ・のぶなが,1534~1582)の軍勢は延暦寺の建物すべてを焼き払い、堂内に居た僧侶は勿論、一般人も含め数千人を一挙に殲滅しました。俗に言う「叡山焼き討ち」の悲劇です。この事実に加え信長は、この後、天正二年(1754)の長島一向一揆と翌天正三年の越前一向一揆でも数千から数万の門徒衆を執拗な残虐さで殺していますから、彼には神仏を尊ぶという考え方がまったく無く、その一方で「合理的」な物の考え方をする中世には珍しい「進歩的」な人物であった、という歴史的な評価がなされています。
また、当時キリスト教の布教活動をしていた外国人が信長の日常生活に触れて『彼自身が神であるかのように振舞った』と伝えている事も信長・無神論説を裏付ける材料になっていますが、果たして信長という人物は、本当に神も仏も全く信じない、当時としては希な合理的な考え方の人だったのでしょうか?
信長の出自については例によって幾つもの学説があるようですが、難しい先生方の諸論文は読むだけでも大変な作業になりますから置いといて、オノコロ流に分かっている事実だけ、それも単純な事実だけを取り出してお話しをすすめましょう。そこで、先の「無神論」者・信長はカミサマ・ホトケサマなど決して信じていなかった…、という辺りから始めますが、大阪府下にある、さして有名ではない、とある神社では、次のような文章を「由緒書」に載せています。(文言はやや異なりますが『豊島郡誌』『摂津名所図会』『大阪府志』にも同様の記述が残されています)
元亀、天正の頃、織田信長は天下統一の手段としてキリスト教の布教につとめ
近畿一円の神社仏閣を多数焼却するに際して、天照大神、春日大神、八幡大神および信長の産土神である
牛頭天王(須佐之男)の諸神は恐れ畏んで破壊しませんでした。
このお話しは、その神社が、それまでお祀りしていた別の神様を「スサノオ」に取り替える(つまり嘘をついた訳です)ことによって焼却破壊を免れ、現在まで存続する事が出来たという事情を説明するために掲載されているのですが、スサノオなら皆さんもお馴染みのカミサマですよね。では、本当に信長さんがスサノオを信じていたという証はあるのでしょうか?実は、あるのです。
織田氏の出自について諸説があることは先にも紹介しましたが、現在では古文書(『藤原信昌・兵庫助弘置き文』)などの研究により越前丹生郡の出身ではないか、とする説が有力になっているようです。いずれにしても、信長の父・織田信秀(おだ・のぶひで)は関東管領・斯波氏の陪臣(家来の家臣)だった人で、所謂武家の家系でみれば主流の地位を占めていた有力な家門ではなかったのです。
で、祖先話に移りますが、ごくごく大雑把に言って信長さんのご先祖については三つの説があり、それは①平氏説 ②藤原氏説 ③忌部氏説-の諸説です。まず平氏説ですが、これは信長が元亀二年六月に越前の白山別山権現に寄進した鰐口にある銘文に「平信長」とあり、ずっと後、従三位権大納言兼近衛大将に任命された記録(『公卿補任』)にも「平信長」と記されてあることに基づくものですが、②の藤原氏説が存在するように信長自身も、また信長より前の世代の複数の織田氏も藤原姓を名乗っていた事実(天文十八年十一月付け『尾張熱田八ケ村宛制札』)があり、いずれも決定的なものではありません。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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