大国主命と天津彦根命 1

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 西暦672年1月7日、近江朝の主が亡くなった。病が篤くなった事を自覚した天智天皇は前年冬十月、東宮・大海人皇子を病床に呼び寄せ『後事を頼みたい』ともちかけましたが、事前に蘇我臣安麻呂から『有意いて言へ(発言は慎重になさってください)』との助言を得ていた皇子は誘いに乗らず、出家を宣言、天皇もこれを許したことから即座に「鬢髪をそり」沙門となって、わずかな供のみを引き連れ吉野に向かったのです。

 旅立ちの朝、左大臣を始めとする要人たちが山背の宇治まで見送り、都に戻った或る政府高官は『虎に翼を付けて放したようなものだ』と思わず漏らしたそうですが、半年も経たないうちに「乱」の様相が鮮明となります。舎人の一人だった物部朴井連雄君の”報告”を待っていたかのように皇子は素早く的確な行動を矢継ぎ早に起こし、短期間のうちに戦の主導権を握ります。

 その尖兵となったのが、美濃国安八磨郡で湯沐令(ゆのうながし=支配地の管理人)の任務にあたっていた多臣品治と村国連男依、身毛君広など美濃に所縁の人物たちで、今回のお話に登場する太朝臣安麻呂(?~723)は『壬申の乱』の功労者・多臣品治の息子だとする書き物も残されています。(『久安五年多神社注進状』)

 その安麻呂は自らが撰録した『古事記』序文の第二段で、壬申の乱(672)の始まりを『南山に蝉蛻し、人事備わりて、東国に虎歩す』と駢儷体の文章でいささか文学的に表現していますが、実力で『天統(天つ日嗣)』を勝ち得た天武帝は、

  朕聞く、諸家のもたる帝紀および本辞、すでに正実に違い、多く虚為を加うと。

  今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなんとす。

  これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。

  故惟れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流えんと欲う。

と詔を発し舎人稗田阿禮に『勅語』したとも伝えられてきました。天武が『虚為』と言い『偽りを削り』たいと考えた事柄が具体的に何であったのか、また『諸家』が家伝としてきた「帝紀と本辞」のどこに「不実」な部分があったのか、もう今となっては探りようもありませんが、それでも安麻呂と阿禮の共同作業の結果、古事記という一つの資料群が我々に伝えられました。

 この安麻呂の手になる序文は基より、古事記という文献そのものが後世の偽作ではないかという見方も江戸期以降多々著されているようですが、その是非については読者の皆さんの判断にお任せするとして、ここでは古事記が伝えた文章を一つの手がかりにして古代史の謎に迫りたいと思います。
 ところで、唐突ですが若し貴方が神社を新たに造ることが出来るとしたら、その神社にはどの様な神様をお祀りしますか?何々、小難しい由緒・ご利益など故事来歴の細部についてではなく、祀りたい神様の第一条件とは何だろう?位の事なのですが…。

(続く)

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