崇神は孝霊の子か 1 様々な主張と事実

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 古代史に関心を持ち、ある程度資料なども自分で調べ、それなりの知識を備えている人たちに『古代の大王・天皇で最も子孫の多いのは誰ですか?』と尋ねた時、咄嗟に景行帝と答える人は意外に多く居るかも知れません。何故なら、伝説の域を出ないものも含めてですが、彼の子供は「八十人」に及んだとされる程の子沢山の大王だったからです。

 しかし、九世紀になって編集された豪族の名鑑『新撰姓氏録』(815年)に採録された記述を根拠にするなら、歴代の大王の中で最も多くの氏族が祖先だとして上げた帝は孝元天皇でした。勿論、姓氏録の完本は伝わっておらず、記録された氏族も一部(半分程度)に限られていますから、孝元の「108氏」を上回る子孫の数を誇った大王が別にいた可能性を排除することはできませんが、それでも全1,182氏の「ほぼ10%」という割合は他の帝たちと比較しても突出しています。

 この背景には全国で多くの一族が繁栄した物部氏の祖とされる人物の妹たちが、孝元に嫁いで多くの子女を儲けたことがありますが、何より有名なのは蘇我氏の祖・竹内宿禰自身が孝元天皇の子(記・比古布都押之信命。書紀は孫と伝える)に位置付けられ、その他紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏などの古代有力豪族も祖先を同じくしているという伝承を持っていることでしょう。
 また、稲荷山古墳出土の鉄剣銘から実在の可能性が濃くなった大彦命の子孫には安倍氏や膳氏も居り、孝元後裔を称する氏族は枚挙にいとまもありません。

 物部氏と帝室=古代豪族によって伝えられた系譜は当然、その豪族たちの主張を含んでいますから、全てを鵜呑みに信じることは危うさを伴います。しかし、伝えられた物の中に見える矛盾が却って当時の実情を示唆してくれる事もあります。特に研究者たちによって「欠史八代」などという有り難くない呼称で一括りにされている、第二代~九代の大王の 一人でもある孝元の配偶者たちのうち二人が物部氏の女性であることや、その兄弟たちの活躍する時期などを勘案することで編集者の意図を探ることが出来ます。

 例えば竹内宿禰の祖である彦太忍信命の母親は伊香色謎命ですが、彼女の兄・伊香色男命は崇神朝に「神班扱者」に任じられており、河内青玉繁の娘・埴安媛が産んだ武埴安彦命(孝元の子)は妻と共に「崇神10年」謀反を起こしています。
 伊香色謎命が孝元の子・開化帝に再び嫁ぎ、生まれたのが崇神天皇であるという系図の信憑性が疑われても仕方ありません。(註・崇神は第十代の天皇)

 崇神天皇を「初代の大王」だと考える研究家は多いようですが、系譜に疑義が生じているだけで特定の大王たちの存在を全て否定することが「科学的」であるとも思いません。ある人物が突然 この世に誕生するはずはありませんから、残された手掛かりを基に想像力を働かせて、大王たちの出自を推理すべきです。歴史文書を後になって「誰か」のために書き直そうとする時、必ず本来その場にいない者を登場させたり、或いは逆に居るべき人物を別の人格に変身させたりするものだという点に十分留意しながら…。

(続く)


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