彦坐王と垂仁天皇 3 

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(承前)

 古事記は開化段において長々と「日子坐王」の系譜を書き記していますが、一人の「王」の後裔をこれほど詳しく伝えているのは「後世」彼の血統から偉大な人物・息長帯姫命(神功皇后)が誕生したからであり、帝室と和邇氏の強固な関係が時代を経て継体・欽明朝まで持続していたからだと思われます。

 ただ、この系図で問題になるのは、彼の妻の一人が「天御影神」の娘とされている点で、この血脈から垂仁の皇后・日葉酢姫が生まれ、二人の間に景行と五十瓊敷入彦命が誕生したと記紀は伝えます。しかし、物言わぬ皇子であったホムツワケと同様、国の基盤作りに大きく貢献したとされる五十瓊敷入彦命も実在性が疑われる存在であり、何より、この時期(四世紀後半)に「天御影神の娘」が居る筈も無いことを思えば、彦坐王と天津彦根命系との婚姻は、曙立王につながる山代之荏名津姫とだけ行われたと考えるべきであり「息長水仍姫」は帝室との関わりの深さの象徴として捉えるべきだと言えそうです。

 (応神系の継体帝が妻とした手白香皇女の母は春日大郎皇女、その兄に当る武烈帝の妻も春日郎子で和邇出身者、更に継体の息子・安閑帝の皇后・春日山田皇女も和邇氏の血を引く女性であり、宣化帝の妻も同様の橘仲皇女という人物でした。五世紀から六世紀半ばの時代に於いても、このように和邇氏は息長系統の帝室と極めて緊密な関係を築いていたのです。従って、記紀の編纂時にも同氏が伝えた故事や系譜などが一定の影響力を持っていたと考えても良いでしょう)

 応神天皇の登場を、四世紀末~五世紀初め頃(西暦400年前後)と想定するなら、難波根子武振熊命に代表される和邇一族は、大王の側に立って新政権樹立を推し進めた「功績」により、皇親の立場を得ました。そして何人もの大王に后妃を送り込むことにより帝室との繋がりは大変強固なものになったと考えられます。そして、息長氏族も応神と共に大和河内近江などに展開して地域で重要な地位を占めたのでしょう。このような背景を前提に垂仁天皇陵に纏わる謎解きを試みるなら、

  ① 陵墓が纏向の近くに造営されなかったとされる理由

    和邇氏および息長氏などの伝えた古事などにより当初の造営地が後世「改変」されたからではないか。

  ② 垂仁と景行の陵墓の築造年代が逆転している理由

    ①に関連して、三輪王朝三代の陵墓所在地が後世「改変」されて文書化された可能性が強い。

    文献資料などの記述から「箸墓古墳」は倭迹迹日百襲姫陵だとされてきたが、

    最も古い方円墳の主は纏向王朝の祖、崇神帝であったとする方が自然である。

    この想像が許されるなら、今「崇神陵」に比定されている行燈山古墳が本来の垂仁陵だと考えることも可能になる。

     また、築造時期についての矛盾も解消される。

  ③ ②から箸墓、行燈山、渋谷向山の三つの古墳は、すべて「Ⅱ型」の平面設計によるものであり、

    それぞれが三人の大王の都の近くに造営されていると見做せる。

     (佐紀古墳群の近くにある宝来山古墳は「Ⅰ型」の設計によるものなので、

     垂仁の陵墓としては相応しくない様に思われる)

などの推論を得ることが出来そうです。

(続く)

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