彦坐王と垂仁天皇 1
JR西日本「万葉まほろば線(桜井線)」に乗って無人の巻向駅で降り、そのまま踏切を西に渡って南の方角に進むと箸墓古墳に到り、その反対に東に向かって進むと国道169号線に突き当たります。
現在は大型バスも行き通うこの道筋が『山の辺の道』と呼ばれている大和の古くからの主要街道の一つで、少し勾配のある道沿いに北上して行くと、右手に小山のような古墳が見えてきます。それが景行天皇陵に比定されている全長300メートルの方円墳です。古事記が『山辺の道の上』にあると記録しているこの古墳から更にもう1キロメートルほど北上すると、もう一つ重量感のある崇神陵が威容を現します。
さて、我が国の古代王朝の創生については色々な学説があるようですが、三輪山周辺の纏向遺跡の発掘調査が進められた現在、四世紀初め頃までには崇神大王による一定規模の権力基盤が大和国内で形作られ、その政権発足とほぼ並行して大型古墳の築造も始められたのではないかと考えられるようになりました。そして、大王家の血脈は「崇神--垂仁--景行」と、いずれも親子によって引き継がれ、更には「成務--仲哀」を経て、偉大な神の子とされる応神帝が誕生したと記紀は伝えているのですが、それはさておき。
大和(三輪)王朝の原点とも言うべき崇神帝が都を置いたとされる瑞籬宮は、現在の桜井市金屋の辺り(志貴坐懸主神社が跡地とされる)でしたが、その子孫たちも垂仁・景行の二代にわたり三輪山北方の「纏向」に拠点を構え、それぞれ「珠城宮、日代宮」と称したと記紀が伝えています。
この二人の大王が都した場所が、今、穴師坐兵主神社が建っている辺りだと考えられ、そのほぼ真北に崇神帝たちの古墳が築造されたのは自然の成り行きだったと思われますが、ここで一つの疑問が浮上します。それは、三輪王朝の二代目で、古代相撲の王者・野見宿禰の進言を採用して陵墓に供える「埴輪」を作らせ、皇后の死去に際して臣下が殉死することを止めさせた、とされる垂仁天皇の古墳が纏向の地には無く、何故遠く北に離れた佐紀古墳群の外縁に造営されているのか?という素朴な思いです。
確かに書紀は彼の陵を「菅原伏見陵」と記録し、古事記も「菅原の御立野の中」に御陵があると記してはいますが、最晩年に至って都をわざわざ近江の高穴穂宮まで遷した景行帝の陵墓でさえ纏向の地に作った帝室が、前の皇后沙本媛とは縁のある土地柄ではあるにせよ、垂仁だけを例外扱いにした明確な理由が見当たらないのです。
また、後の皇后が祖父・日子坐王の母方である和邇氏ゆかりの佐紀に葬られたと云う事情も分からなくは有りませんが、父の景行が都とした近江の地を生涯離れなかったと見られている息子・成務帝と隣り合わせに陵墓が造られているのも不思議と云えば不思議です。
(註:朝廷に反乱を企てた兄妹の故郷に帝の陵墓を営むとは到底思えないので、垂仁の前の皇后に纏わる品牟都和気命[ホムツワケ]伝説を含めた伝承は、相当な粉飾が後代に加えられていると推測できます)
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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