斎藤家に危機が訪れた時

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東洲斎写楽という江戸の浮世絵師は、本当に能役者の斎藤十郎兵衛だったのか、
という根本的な疑問には答えられないが、江戸期に刊行された紳士録でもある
武鑑』に掲載されている猿楽師たちの一覧表から分かる、一つの推理を紹介する。

既に能楽の研究者によって綿密な調査が行われ、斎藤家の「ルーツ」に関しては
かなり明確になってきているが、それでも不明な部分は残されている。
その疑問点の一つが、

  何故『武鑑』には斎藤「与右衛門」の名前だけしか載っていないのか

という単純、素朴な内容なのだが、この点についてはウエブを検索してみても、
納得のゆく解説をしている論文には行き当らない。
従って、資料として公開されている『武鑑』の記述に頼るしかないのだが、
大げさに言うと斎藤家の存続が危うくなった一時期があった、であろう事が
分かってくる。
それは時代が宝永から正徳に移り変わる時であり、斎藤与右衛門の一家では
世代交代があったと考えられる。
喜多座は、もともと各座と比べて少人数の世帯なのだが、僅か三十人にも
満たない座の末席に「与右衛門」が付かされたのは、この時期しかない。

正徳元年(1711)に至り「斎藤与右衛門」は初めて「斎藤清右衛門」の
後塵を拝する事になり、ほぼ20年間同じ状況が続いた。
享保十四年、斎藤清右衛門の名前が消えて「斎藤十右衛門」が初登場するのだが、
恐らく、この時「清右衛門」家でも代替わりがあったに違いない。
これを見ると、何故「十郎兵衛」だけ名前が『武鑑』に記されないのかが、
一層不思議に思えてならない。


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