写楽と方角分と地蔵橋
(中村静夫氏の労作『八丁堀屋敷図』より。嘉永六年頃の住人)
阿波藩の能役者であった斎藤十郎兵衛の名前が、所縁のお寺の過去帳から見つかったことで、
東洲斎写楽という浮世絵師の実像も明らかになったとする「説」が勢いを増した。
その論拠の元となった資料が『諸家人名江戸方角分』の八町堀の項にある、
「写楽斎」という画号の浮世絵師(故人)の記述だとは既に述べて来た。
そして「何故」本名がそのまま記載されていないのか、という疑問への答えが、
大名お抱えの能役者が、世間を憚ったから
つまり「士分」たる者が「低級」な浮世絵を描いたとあっては主家への面目が立たないからだ、
と研究者が言いつのっていることも紹介してきた。
その是非は別として、一つ注意を喚起しておきたい事柄がある。
先ず「方角分」が作成されたのは文政元年(1818)頃だが、
写楽がお江戸の歌舞伎役者たちを描いたのは寛政六年(1794)から七年にかけての事。
更に、能役者の斎藤十郎兵衛が、南八丁堀の阿波藩中屋敷から
八丁堀地蔵橋近くに転居してきたのは寛政十一年三月から享和元年三月までの間、
斎藤の「隣人」で国学者の村田春海が引っ越してきたのは、
寛政十一年五月から同年十月までの間だという事なのだ。
何が言いたいのかと云うと、
若し、斎藤十郎兵衛が写楽だったとしても、その作画期は
阿波藩の屋敷内にあった長屋の一室で暮らしていた(隠していた?)
のだから、十数年も前に「藩に内証」で役者絵を描いた時の筆名を、
態々、人名録を作るための資料探しをしている他人に教える馬鹿はいないだろう。
筆者が斎藤なら「私は阿波藩の能役者です」とだけ言うに決まっている。
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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