安閑と淀川 3 河内湖と浪速

(承前)  応神天皇が大隈宮を営み、大王の拠点を河内最北端に築くと、その息子・仁徳天皇は父の政策を一段と発展させて、遂に、大阪湾を臨む難波に都を造営します(これが難波高津宮で、現在の上町台地に在ったと思われます)。  ただ当時の北「河内」は、その名前の通り大部分が「水浸し」の湿地帯の状態で、とても人々が田畑を耕し生活することなど考え…

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安閑と淀川 2 応神の事績も伝承

(承前)  また、安閑天皇所縁の神社も大阪東淀川区に存在しています。それが大宮神社で、社発行の「大宮略記」には、   本社の起源は、安閑天皇しばしばこの地に行幸され、  即位二年の秋、勅して牛を放牧せしめられ、  土地の発展を計らしめ給うたのを、後、その御徳を慕って祭祀奉った。 と記されています。ただ「社創建の時期」は詳らかではな…

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安閑と淀川 1 勅命で牧場を作る

 ゼンラクレン(「全酪連」と書きます。あの、ナントカ連とは全く関係ありません)のホームページによると、この国に搾乳の技術が百済から伝えられたのは『六世紀の中頃』のことで、ほぼ同時に渡来した仏教の広がりに伴う「肉食」の禁止などの政策も手伝い、民衆の間に定着しかけた酪農は一転急速に衰えてしまったようです。  又、別の資料によれば欽明天…

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